・・・彫刻師はその夜の中に、人知れず、暗ながら、心の光に縁側を忍んで、裏の垣根を越して、庭を出るその後姿を、立花がやがて物語った現の境の幻の道を行くがごとくに感じて、夫人は粛然として見送りながら、遥に美術家の前程を祝した、誰も知らない。 ただ・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・ その声が、直ぐ耳近に聞こえたが、つい目前の樹の枝や、茄子畑の垣根にした藤豆の葉蔭ではなく、歩行く足許の低い処。 其処で、立ち佇って、ちょっと気を注けたが、もう留んで寂りする。――秋の彼岸過ぎ三時下りの、西日が薄曇った時であった。こ・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・藪には今藪鶯がささやかな声に鳴いてる。垣根のもとには竜の髭が透き間なく茂って、青い玉のなんともいえぬ美しい実が黒い茂り葉の間につづられてある。竜の髭の実は実に色が麗しい。たとえて言いようもない。あざやかに潤いがあるとでも言ったらよいか。藪か・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・池に仰向けになって浮いていた。垣根の竹につかまって、池へはいらずに上げることができた。時間を考えると、初めいるかと問うた時たしかにいたものならば、その後の間はまことにわずかの間に相違ないが、まさか池にと思って早く池を見なかった。騒ぎだした時・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・と、僕は平気で井戸へ行ったが、その朝に限って井筒屋の垣根をはいることがこわいような、おッくうなような――実に、面白くなかった。顔を洗うのもそこそこにして、部屋にもどり、朝昼兼帯の飯を喰いながら、妻から来た手紙を読んで見た。僕の宿っているのは・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・二葉亭は毎晩その刻限を覘っては垣根越しに聞きに行った。艶ッぽい節廻しの身に沁み入るようなのに聞惚れて、為永の中本に出て来そうな仇な中年増を想像しては能く噂をしていたが、或る時尋ねると、「時にアノ常磐津の本尊をとうとう突留めたところが、アンマ・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・ そのうちに、十分、みつを吸ってしまったので、ひらひらと重そうに、翅をふって垣根を越えて、まぶしい、空のかなたへ、飛んでいってしまいました。 翌日は、土曜日で、二郎さんも早く学校から帰ってきました。そして、みんなが、お縁側で話をして・・・ 小川未明 「黒いちょうとお母さん」
垣根の内側に、小さな一本の草が芽を出しました。ちょうど、そのときは、春の初めのころでありました。いろいろの花が、日にまし、つぼみがふくらんできて、咲きかけていた時分であります。 垣根の際は、長い冬の間は、ほとんど毎朝のように霜柱が・・・ 小川未明 「小さな草と太陽」
・・・やはり雨後でした。垣根のきこくがぷんぷん快い匂いを放っていました。 銭湯のなかで私は時たま一緒になる老人とその孫らしい女の児とを見かけました。花月園へ連れて行ってやりたいような可愛い児です。その日私は湯槽の上にかかっているペンキの風景画・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・ 路傍の梅 少女あり、友が宅にて梅の実をたべしにあまりにうまかりしかば、そのたねを持ち帰り、わが家の垣根に埋めおきたり。少女は旅人が立ち寄る小さき茶屋の娘なりき、年経てその家倒れ、家ありし辺りは草深き野と変わりぬ・・・ 国木田独歩 「詩想」
出典:青空文庫