・・・ たといそれは辞令にしても、猛烈な執着はないに違いない。猛烈な、――たとえばその浪花節語りは、女の薄情を憎む余り、大怪我をさせたという事だろう。僕は小えんの身になって見れば、上品でも冷淡な若槻よりも、下品でも猛烈な浪花節語りに、打ち込むのが・・・ 芥川竜之介 「一夕話」
・・・勿論私にしても格別釣に執着があった訳でもありませんから、早速彼の発議に同意して、当日は兼ねての約束通り柳橋の舟宿で落合ってから、まだ月の出ない中に、猪牙舟で大川へ漕ぎ出しました。「あの頃の大川の夕景色は、たとい昔の風流には及ばなかったか・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ 女を待ちうけている仁右衛門にとっては、この邪魔者の長居しているのがいまいましいので、言葉も仕打ちも段々荒らかになった。 執着の強い笠井も立なければならなくなった。その場を取りつくろう世辞をいって怒った風も見せずに坂を下りて行った。・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・今まで氷のように冷たく落着いていたクララの心は、瀕死者がこの世に最後の執着を感ずるようにきびしく烈しく父母や妹を思った。炬火の光に照らされてクララの眼は未練にももう一度涙でかがやいた。いい知れぬ淋しさがその若い心を襲った。「私のために祈・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・されば階級といい習慣といういっさいの社会的法則の形成せられたる時は、すなわちその社会にもはや新らしき声の死んだ時、人がいたずらに過去と現在とに心を残して、新らしき未来を忘るるの時、保守と執着と老人とが夜の梟のごとく跋扈して、いっさいの生命が・・・ 石川啄木 「初めて見たる小樽」
・・・けれども、未練と、執着と、愚癡と、卑劣と、悪趣と、怨念と、もっと直截に申せば、狂乱があったのです。 狂気が。」 と吻と息して、……「汽車の室内で隣合って一目見た、早やたちまち、次か、二ツ目か、少くともその次の駅では、人妻におなり・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・ 宜しこそ、近藤は、執着の極、婦人をして我に節操を尽さしめんか、終生空閨を護らしめ、おのれ一分時もその傍にあらずして、なおよく節操を保たしむるにあらざるよりは、我に貞なりとはいうことを得ずとなし、はじめよりお通の我を嫌うこと、蛇蝎もただ・・・ 泉鏡花 「琵琶伝」
・・・年なお若い君が妻などに頓着なく、五十に近い僕が妻に執着するというのはよほどおかしい話である。しかしここがお互いに解しがたいことであるらしい。 貧乏人の子だくさんというようなことも、僕の今の心理状態と似よった理由で解釈されるのかもしれない・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・一向小説家らしくなかった人、政治家を志ざしながら少しも政治家らしくなかった人、実業家を希望しながら企業心に乏しく金の欲望に淡泊な人、謙遜なくせに頗る負け嫌いであった人、ドグマが嫌いなくせに頑固に独断に執着した人、更に最う一つ加えると極めて常・・・ 内田魯庵 「二葉亭余談」
・・・憎み切ってしまう事が出来れば、そこに何等かこの人生に対して強い執着のある事を意味する。残忍という事もどれ程人間というものが残忍であり得るか、残忍の限りを盟した時、眼を掩ってそれ以上の残忍は為し得ないという時そこに本当の人間性はあり得る。・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
出典:青空文庫