・・・我れながら解せられぬ煩悶に苦しむような執着を持っていまい。江戸の人は早く諦めをつけてしまう。すぐと自分で自分を冷笑する特徴をそなえているから。 高い三の糸が頻りに響く。おとするものは――アと歌って、盲人は首をひょいと前につき出し顔をしか・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・御互のように命については極めて執着の多い、奇麗でない、思い切りのわるい連中が、こうしてぴんぴんしているような訳かも知れません。これでも多少の説明にはなります。しかしもっと進んでこの傾向の大原因を極めようとすると駄目であります。万法一に帰す、・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・前後を切断せよ、妄りに過去に執着するなかれ、いたずらに将来に望を属するなかれ、満身の力をこめて現在に働けというのが乃公の主義なのである。しかるに国へ帰れば楽ができるからそれを楽しみに辛防しようと云うのははかない考だ。国へ帰れば楽をさせると受・・・ 夏目漱石 「倫敦消息」
・・・かかる自己に執着するのが迷である。絶対否定即肯定ということは、判断的自己の立場からいい得ることではない。それは作り作られる歴史的自己の立場、生死的自己の立場においてでなければならない。道元は自己をならうことは自己をわするるなり、自己をわする・・・ 西田幾多郎 「デカルト哲学について」
・・・ 彫塑の妙――生への執着の数万の、デッド、マスク! 宏壮なビルディングは空に向って声高らかに勝利を唄う。地下室の赤ん坊の墳墓は、窓から青白い呪を吐く。 サア! 行け! 一切を蹂躙して! ブルジョアジーの巨人! 私は、面会・・・ 葉山嘉樹 「牢獄の半日」
・・・法華信者が偏頗心で法華に執着する熱心、碁客が碁に対する凝り方、那様のと同様で、自分の存在は九分九厘は遊んでいるのさ。真面目と云うならば、今迄の文学を破壊する心が、一度はどうしても出て来なくちゃならん。 だから私の態度は……私は到底文学者・・・ 二葉亭四迷 「私は懐疑派だ」
・・・ 今度読み直して見て、私は作者がどうしてこれほどの執着をもって、この題材にあたったのであろうかという好奇心を感じた。何故なら、率直に言ってこれは菊判六百頁に近い程長く書かせる種類の題材でなく感じられたし、長篇小説として見ればどちらかと言・・・ 宮本百合子 「「或る女」についてのノート」
・・・ どちらが好いか悪いかと云う事は別として、どうしてそう云う気分になって来るかと云うと、前者は、美に対する執着なり要求が少ないので、後者になると、絶えず美に対する渇仰が心に湧いて居るのである。 美を要求すると云う事は、人性の自然だなど・・・ 宮本百合子 「雨滴」
・・・日本絵の具といえども胡粉を多量に使用することによって厚みや執着力を印象することは不可能であるまい。写実も思うままにやれるだろう。古い仏画の内にはこの事を確信せしむる二三の例がある。これらの仏画を眼中に置いて現在の日本画を見れば、その弱さと薄・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・という理想を阻んでいるものは、政治においても経済においても、自己の利益または特権に執着する心である。「万民の志を遂げしむる」ことによって自己の利益または特権を失わんことを恐るる心である。それが聖勅に違背する心である。またもし工業労働者のみの・・・ 和辻哲郎 「蝸牛の角」
出典:青空文庫