・・・身を切るような風吹きて霙降る夜の、まだ宵ながら餅屋ではいつもよりも早く閉めて、幸衛門は酒一口飲めぬ身の慰藉なく堅い男ゆえ炬燵へ潜って寝そべるほどの楽もせず火鉢を控えて厳然と座り、煙草を吹かしながらしきりに首をひねるは句を案ずるなりけり。・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・また、固い靴で、蹴落された。彼は、必死に力いっぱいに、狭い穴の中でのたうちまわった。 彼は、右肩を一尺ばかり斬られていた。栗島は、老人の傷口から溢れた血が、汚れた阿片臭い着物にしみて、頭から水をあびせられたように、着物がべと/\になって・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・そればかりじゃあ無い、奉公をしようと云ったって請人というものが無けりゃあ堅い良い家じゃあ置いてくれやしないし、他人ばかりの中へ出りゃあ、この児はこういう訳のものだから愍然だと思ってくれる人だって有りゃあしない。だから他郷へ出て苦労をするにし・・・ 幸田露伴 「雁坂越」
・・・――然し皆の胸の中には固い、固い決意が結ばれて行った。 * メリヤス工場では又々首切りがあるらしかった。何処を見ても、仕事がなくて、食えない人がウヨウヨしていた。お君はストライキの準備を進めながら、暇を見ては仕事を探・・・ 小林多喜二 「父帰る」
・・・長く濃かった髪は灰色に変って来て、染めるに手数は掛かったが、よく手入していて、その額へ垂下って来るやつを掻上げる度に、若い時と同じような快感を覚えた。堅い地を割って、草の芽も青々とした頭を擡げる時だ。彼は自分の内部の方から何となく心地の好い・・・ 島崎藤村 「刺繍」
・・・背後にだけ硬い白髪の生えている頭である。破れた靴が大き過ぎるので、足を持ち上げようとするたびに、踵が雪にくっついて残る。やはり外の男等のように両手を隠しに入れて頭を垂れている。しかし何者かがその体のうちに盛んに活動している。右の手で絶えず貨・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・それにね、あの人は堅いのよ。わたしより外の女に関係していないということは、わたし受け合っても好いの。なぜ笑うの。いつかもわたしに打ち明けて話したわ。そら。わたしが諾威へ旅稼に行ったでしょう。あの留守に、あの厭なフリイデリイケが来てごまかそう・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:森鴎外 「一人舞台」
・・・ 女房は夢の醒めたように、堅い拳銃を地に投げて、着物の裾をまくって、その場を逃げ出した。 女房は人げの無い草原を、夢中になって駆けている。唯自分の殺した女学生のいる場所から成たけ遠く逃げようとしているのである。跡には草原の中には赤い・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・脚を固い板の上に立てて倒して、体を右に左にもがいた。「苦しい……」と思わず知らず叫んだ。 けれど実際はまたそう苦しいとは感じていなかった。苦しいには違いないが、さらに大なる苦痛に耐えなければならぬと思う努力が少なくともその苦痛を軽くした・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・下には磁器の堅いものがゴタゴタ並んでいたので、元来脆いこの壷の口の処が少しばかり欠けてしまった。私は驚いて「どうもとんだ粗相をしました」と云うと、主人は、「いや、どう致しまして、一体この置き所も悪いものですから」と云った。そして、「このつれ・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫