・・・「今神山さんに墨色を見て来て貰ったんだよ。――洋ちゃん、ちょいとお母さんを見て来ておくれ。さっきよく休んでお出でだったけれど、――」 ひどく厭な気がしていた彼は金口を灰に突き刺すが早いか、叔母や姉の視線を逃れるように、早速長火鉢の前・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・夜目ながら墨色深潤大いに気に入った。此気分のよいところで早速枕に就くこととする。 強いて頭を空虚に、眼を閉じてもなかなか眠れない、地に響くような波の音が、物を考えまいとするだけ猶強く聞える。音から聯想して白い波、蒼い波を思い浮べると、も・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・僕ら素人眼にも、どうもこの崋山外史と書いた墨色が新しすぎるようですからね」 しかし耕吉の眼には、どれもこれも立派なものばかしで、たいした金目のもののように見えた。その崋山の大幅というのは、心地よげに大口を開けて尻尾を振上げた虎に老人が乗・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・オリジナルは児童用の粗末な藁紙ノートブックに当時丸善で売っていた舶来の青黒インキで書いたものだそうであるが、それが変色してセピアがかった墨色になっている。その原稿と色や感じのよく似た雁皮鳥の子紙に印刷したものを一枚一枚左側ページに貼付してそ・・・ 寺田寅彦 「小泉八雲秘稿画本「妖魔詩話」」
・・・ペリカンは余の要求しないのに印気を無暗にぽたぽた原稿紙の上へ落したり、又は是非墨色を出して貰わなければ済まない時、頑として要求を拒絶したり、随分持主を虐待した。尤も持主たる余の方でもペリカンを厚遇しなかったかも知れない。無精な余は印気がなく・・・ 夏目漱石 「余と万年筆」
・・・ 栄蔵は、だまって、墨色をした鉢と、火の様な花を見ながら深い思いに沈んだ。 何故斯うやって、仲の悪い同志が不思議にはなれられない縁でむすばって居るのだろうか。 早く、どっちかが死ねば少しはよくなるだろうのにそうもならない。・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・光君は、あんな枯木のようになった、血もなんにも流れていないような母君にどうして私の思って居る事を私の満足するようにすることが出来るはずがないと思いながらそのつやのない墨色を見て居ると、「御返事をなさらないんでございますか、何とか申し上げ・・・ 宮本百合子 「錦木」
・・・江戸で出した国書の別幅に十一色の目録があったが、本書とは墨色が相違していたそうである。 この日に家康は翠色の装束をして、上壇に畳を二帖敷かせた上に、暈繝の錦の茵を重ねて着座した。使は下段に進んで、二度半の拝をして、右から左へ三人並んだ。・・・ 森鴎外 「佐橋甚五郎」
出典:青空文庫