・・・ 本多子爵は壮年時代の美貌が、まだ暮方の光の如く肉の落ちた顔のどこかに、漂っている種類の人であった。が、同時にまたその顔には、貴族階級には珍らしい、心の底にある苦労の反映が、もの思わしげな陰影を落していた。私は先達ても今日の通り、唯一色・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・そうしてそのテエブルの向うへ、無造作に腰を下すと、壮年のような大きな声を出して、「やあ失敬」と声をかけた。 本間さんは何だかわからないが、年長者の手前、意味のない微笑を浮べながら、鷹揚に一寸頭を下げた。「君は僕を知っていますか。なに・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・ ――聞くとともに、辻町は、その壮年を三四年、相州逗子に過ごした時、新婚の渠の妻女の、病厄のためにまさに絶えなんとした生命を、医療もそれよ。まさしく観世音の大慈の利験に生きたことを忘れない。南海霊山の岩殿寺、奥の御堂の裏山に、一処咲満ち・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・ヒュネカのごとき活気盛んな壮年者もあれば、ブラウニング夫人のごとき才気当るべからざる婦人もいる。いずれも皆外国または内国の有名、無名の学者、詩人、議論家、創作家などである。そのいろんな人々が、また、その言うところ、論ずるところの類似点を求め・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・が、壮年の沼南は廃娼よりはむしろ拝娼で艶名隠れもなかった。が、その頃は紅倚翠を風流として道徳上の問題としなかった。忠孝の結晶として神に祀られる乃木将軍さえ若い頃には盛んに柳暗花明の巷に馬を繋いだ事があるので、若い沼南が流連荒亡した半面の消息・・・ 内田魯庵 「三十年前の島田沼南」
・・・曲った時が至る如く、また、靴匠が仕事場に坐って、他人の靴を修繕したり、足の大きさなどを計っているうちに、いつしか、自分の指頭に皺が寄り、眼が霞んでくるように、私の青春も去ってしまえば、また、やがてその壮年期も去らんとしているのであります。・・・ 小川未明 「机前に空しく過ぐ」
・・・人がもし壮年の時から老人の時まで、純然たる独身生活すなわち親子兄弟の関係からも離れてただ一人、今の社会に住むなら並み大抵の人は河田翁と同様の運命に陥りはせまいか、老いてますます富みかつ栄えるものだろうか。 翁の子敬太郎は翁とまるきり無関・・・ 国木田独歩 「二老人」
・・・これ壮年の者ならでは知らぬ涙にて、この涙のむ者は地上にて望むもかいなき自由にあこがる。しかるに壮年の人よりこの涙を誘うもののうちにても、天外にそびゆる高峰の雪の淡々しく恋の夢路を俤に写したらんごときに若くものあらじ。 詩人は声はり上げて・・・ 国木田独歩 「星」
・・・村の夕暮れのにぎわいは格別で、壮年男女は一日の仕事のしまいに忙しく子供は薄暗い垣根の陰や竈の火の見える軒先に集まって笑ったり歌ったり泣いたりしている、これはどこの田舎も同じことであるが、僕は荒涼たる阿蘇の草原から駆け下りて突然、この人寰に投・・・ 国木田独歩 「忘れえぬ人々」
・・・ましてすでに結婚後の壮年期に達したるものの恋愛論は、もはや恋愛とは呼べない情事的、享楽的漁色的材料から帰納されたものが多いのであって、青年学生の恋愛観にとっては眉に唾すべきものである。 結婚後の壮年が女性を見る目は呪われているのだ。たと・・・ 倉田百三 「学生と生活」
出典:青空文庫