・・・「さもなければ僕の中の声楽家だよ。」 彼はこう答えるが早いか、途方もなく大きい嚔めをした。 五 ニイスにいる彼の妹さんから久しぶりに手紙の来たためであろう。僕はつい二三日前の夜、夢の中に彼と話していた。・・・ 芥川竜之介 「彼 第二」
・・・この声楽家は、有名な方なのよ。」「いえ、お嬢さま、どうか、今年の夏、私の生まれた村へいらしてください。谷にはべにゆりが咲いていますし、あの悲しい子守唄をおきかせしたいのでございますから。」 おかよは哀れなおきぬの話をしてきかせたので・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
・・・その僕が声楽家のあなたと道連れになるなんて……。いや、実際ひどい音痴でしてね。だから歌は余り好きな方じゃなかったんですよ。いや、むしろ大きらいな方なんですよ」 言っているうちに、白崎は、ああ俺は何てへまなことを言ってるんだろうと、げっそ・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・ ――リュシエンヌよ、私は或る声楽家を知っていた。彼が許嫁の死の床に侍して、その臨終に立会った時、傍らに、彼の許嫁の妹が身を慄わせ、声をあげて泣きむせぶのを聴きつつ、彼は心から許嫁の死を悲しみながらも、許嫁の妹の涕泣に発声法上の欠陥のあ・・・ 太宰治 「女の決闘」
・・・ああいう歌でもちゃんとした声楽家の歌ったのならきっとおもしろいだろうと思われるが、普通のレコードのように妙な癖のあるませた子供の唱歌は私にはどうも聞き苦しい。そうかと言って邦楽の大部分や俗曲の類は子供らにあまり親しませたくなし、落語などとい・・・ 寺田寅彦 「蓄音機」
・・・結婚の話が要件で、あちらで知った日本の娘さんで声楽を勉強している人、カネボウの重役とかの娘で、小さい写真が入っていますが、ちっ共悪くパッとしたとこのない、やっぱりどてらの苦労もしそうな人で、皆いい点をつけました。娘さんの方では、何かの便利で・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ たとい、或る人は声楽家でなくても、美くしい声をもっている方がよいのは、真理です。耳がないよりある方がよいのは、明かではありますまいか。 そして、それが真理だと解っているなら、例え自分は極りの悪いほど濁った、嗄がれ声であっても、美く・・・ 宮本百合子 「地は饒なり」
・・・ ここで、我々の前に、パリに住んでいる声楽家でありピアニストであり、作家ルイ・ヴィアルドオの妻であるヴィアルドオ夫人の存在が浮び上って来る。ツルゲーネフは彼より三つ年若いヴィアルドオ夫人が、ペテルブルグへ演奏旅行に来たとき知り合いと・・・ 宮本百合子 「ツルゲーネフの生きかた」
・・・音楽といっても第一位が声楽家たちであり、楽器の演奏家たちがそれにつづいているのであって、ヨーロッパの音楽史はあれほど幾多の卓抜なプリマドンナの名を記しながら、婦人の作曲家というものはほとんど一人もその頁のなかに止めていない。婦人指揮者という・・・ 宮本百合子 「婦人の文化的な創造力」
・・・ 音楽、特に女性がこれまで偉大な足跡をのこして来た声楽の場合では、その自然的な条件が文学的創作の場合と大分違う。女の喉しかソプラノの声は出さない。美しいソプラノの出る、または味のあるアルトの出るよい女性の喉を持ってさえおれば、声楽家とし・・・ 宮本百合子 「プロレタリア婦人作家と文化活動の問題」
出典:青空文庫