・・・夕刊売りや鯉売りが暗い火を点している省線の陸橋を通り、反射燈の強い光のなかを黙々と坂を下りてゆく。どの肩もどの肩もがっしり何かを背負っているようだ。行一はいつもそう思う。坂を下りるにつれて星が雑木林の蔭へ隠れてゆく。 道で、彼はやはり帰・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ よそから毎晩のようにこの置座に集まり来る者二、三人はあり、その一人は八幡宮神主の忰一人は吉次とて油の小売り小まめにかせぎ親もなく女房もない気楽者その他にもちょいちょい顔を出す者あれどまずこの二人を常連と見て可なるべし。二十七年の夏も半・・・ 国木田独歩 「置土産」
・・・ 犬や犬や浮世の街にさすろうもの犬ならざるいくばくぞ、かみつかまれつその日と夜を送り、そのほゆる声騒がしく、とてもわれらの住み得べきにあらず、船を家となし風と波とに命を託す、安ければ買い高ければ売り、酒あれば飲み、大声あげて歌うもわがた・・・ 国木田独歩 「おとずれ」
・・・ 寒い街を歩いて夕刊売りの娘を見た。無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。だが自分から銅貨を受取ったときの彼女の悲しそうな目なざしは何だろう。道々いろいろなことが考えられる。理想的社会の建設――こうしたことまで思い及ぼされるようでな・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・ が、最近また米の配給方法が変って外米を鶏に呉れてやった船長の細君も、籠で売りに行く女も、もうそんなことができなくなってしまった。それは、そんなのを防ぐためだろうが、内地米と外米をすっかり混合してしまって配達するのである。鶏に呉れてやる・・・ 黒島伝治 「外米と農民」
・・・またその掘出物を安く買って高く売り、その間に利を得る者があれば、それは即ち営業税を払っている商売人でなければならぬ。商売人は年期を入れ資本を入れ、海千山千の苦労を積んでいるのである。毎日真剣勝負をするような気になって、良い物、悪い物、二番手・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・時には、大森の方から魚を売りに来る男が狭い露地に荷をおろし、蕾を見せた草の根を踏み折ることなぞもあった。そよとの風も部屋にない暑い日ざかりにも、その垣の前ばかりは坂に続く石段の方から通って来るかすかな風を感ずる。わたしはその前を往ったり来た・・・ 島崎藤村 「秋草」
・・・いまはもう私どもも、仕入れに金がかかって、家の中にはせいぜい五百円か千円の現金があるくらいのもので、いや本当の話、売り上げの金はすぐ右から左へ仕入れに注ぎ込んでしまわなければならないんです。今夜、私どもの家に五千円などという大金があったのは・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・同じ女の絵はがきでも初めは生徒の手から没収したのを後には自分でお客に売り歩くことになっている。要するにこの映画ではこういうものがあまり錯雑し過ぎていた、なんとなく渾然としない感じがする。これに比べると「モロッコ」の太鼓とラッパの一貫したモテ・・・ 寺田寅彦 「映画雑感(1[#「1」はローマ数字、1-13-21])」
・・・家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よくしてくれた。大柄な子で、頬っぺたがブラさがるように肥っている。つぶらな眼と濃い眉毛を持っていて、口数はすくない・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
出典:青空文庫