・・・蟹の妻は売笑婦になった。なった動機は貧困のためか、彼女自身の性情のためか、どちらか未に判然しない。蟹の長男は父の没後、新聞雑誌の用語を使うと、「飜然と心を改めた。」今は何でもある株屋の番頭か何かしていると云う。この蟹はある時自分の穴へ、同類・・・ 芥川竜之介 「猿蟹合戦」
・・・ああ云う雑誌社に作品を売るのは娘を売笑婦にするのと選ぶ所はない。けれども今になって見ると、多少の前借の出来そうなのはわずかにこの雑誌社一軒である。もし多少の前借でも出来れば、―― 彼はトンネルからトンネルへはいる車中の明暗を見上げたなり・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・彼女はそれらのルンペン相手に稼ぐけちくさい売笑婦に過ぎない。ルンペンにもまたそれ相応の饗宴がある。ガード下の空地に茣蓙を敷き、ゴミ箱から漁って来た残飯を肴に泡盛や焼酎を飲んでさわぐのだが、たまたま懐の景気が良い時には、彼等は二銭か三銭の端た・・・ 織田作之助 「世相」
・・・殊に世人から売笑婦として卑しめられている斯くの如き職業の女に対しては、たとえ品性上の欠点が目に見えても、それには必由来があるだろうと、僕等は同情を以て之を見ようと力めている。同情は芸術制作の基礎たるのみではない。人生社会の真相を透視する道も・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・ベルリンに、日本に、売笑のあらゆる形態が生れ出ていることは、ファシズムの残忍非道な生活破壊の干潟の光景である。独善的に民族の優越性や民族文化を誇張したファシズム治下の国々が、ほかならぬその母胎である女性の性を、売淫にさらしていることはわたし・・・ 宮本百合子 「偽りのない文化を」
・・・マグダラのマリアは、迫害されながら、迫害するものの欲望のみたしてとして生きる売笑婦であった。ローマの権力に対して譲歩しない批判者であった大工の息子のイエスは、彼の意見に同感し、行動をともにするようになった漁夫のペテロそのほかの素朴な人たちと・・・ 宮本百合子 「傷だらけの足」
・・・男は土方をしても労働できるけれども、女の人は売笑婦になる。そういう道徳的頽廃を起すから女の失業者の問題を解決しなければならないけれども、社会的解決は資本主義的民主主義ではできません。だからある点ではこれらの民主主義社会は、すべてのものの幸福・・・ 宮本百合子 「幸福の建設」
・・・数年来、私は女性を監獄ではどう取扱うのか知りたいという欲望をもっていた。売笑婦の研究、不良少女の研究、それ等は活動的な女性によって、或は社会研究者である男性の手によってされている。けれども、女囚の生活、獄中生活が女性に及ぼす精神的の影響等は・・・ 宮本百合子 「是は現実的な感想」
・・・この間新聞に、通称ママといわれる売笑婦が焼跡の空きビルで屍体となって発見されたという記事がありました。世界には有名なゾラの小説でナナという売笑婦がありました。ミミという売笑婦もいました。ルルという女もいます。同じ字を二つ重ねた売笑婦の愛嬌の・・・ 宮本百合子 「自覚について」
・・・この問題は、長年ブルジョア女性解放論者によっていわれてきたような、女性の主観的がんばりだけで達成されるものでもないし、戦時中の政府が戦争目的のために婦人技術者を養成して、いまはそれ等の人の中から売笑婦が出るような状態につきおとしているやり方・・・ 宮本百合子 「質問へのお答え」
出典:青空文庫