・・・はじめ私はそれを発熱のためか、それとも極端な寒さのなかで起る身体の変調かと思っていた。しかし歩いてゆくうちに、それは昼間の日のほとぼりがまだ斑らに道に残っているためであるらしいことがわかって来た。すると私には凍った闇のなかに昼の日射しがあり・・・ 梶井基次郎 「冬の蠅」
・・・ が、彼女は変調を来した生理的条件に、すべてを余儀なくされていた。「やちもないことをしてくさって、虹吉の阿呆めが!」 母は兄の前では一言の文句もよく言わずに、かげで息子の不品行を責めた。僕は、「早よ、ほかで嫁を貰うてやらんせ・・・ 黒島伝治 「浮動する地価」
・・・つまり正当なる社会の偽善を憎む精神の変調が、幾多の無理な訓練修養の結果によって、かかる不正暗黒の方面に一条の血路を開いて、茲に僅なる満足を得ようとしたものと見て差支ない。あるいはまたあまりに枯淡なる典型に陥り過ぎてかえって真情の潤いに乏しく・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・思想が狂ってると同時に、神経までが変調になったので、そして其挙句が……無茶さ! で、非常な乱暴をやっ了った。こうなると人間は獣的嗜慾だけだから、喰うか、飲むか、女でも弄ぶか、そんな事よりしかしない。――一滴もいけなかった私が酒を飲み出す・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・その後、日本の民主化にいろいろの変調が加えられて、たとえば用紙割当委員会の権限が、ずるずると内閣に属す委員会に移され、文化材の合理的割当を口実に、官僚統制、赤本屋委員会に堕してしまうころから、吉田茂の明るい展望が記者団との会見で語られるよう・・・ 宮本百合子 「「委員会」のうつりかわり」
・・・それは不断から機嫌の変わり易い宇平が、病後に際立って精神の変調を呈して来たことである。 宇平は常はおとなしい性である。それにどこか世馴れぬぼんやりした所があるので、九郎右衛門は若殿と綽号を附けていた。しかしこの若者は柔い草葉の風に靡くよ・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・それに肺病で体が悪くなって、精神までが変調を来している。 フランスとベルジックとの文学で、Maupassant の書いたものには、毒を以て毒を制するトルストイ伯の評のとおりに、なんのために書いたのだという趣意がない。無理想で、amora・・・ 森鴎外 「沈黙の塔」
・・・ 私は心臓が変調を来たしたような心持ちでとりとめもなくいろいろな事を思い続けました。――しかしこれだけなら別にあなたに訴える必要はないのです。あなたに聞いていただかなければならない事は、その後一時間ばかりして起こりました。それは何でもな・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・ 生命の執着はまた人生に大変調を来たす。恋の怨みに世を去り、悲痛なる反抗心に死する人が世に遺す凄き呪い。一念の凝った生き霊。藤村操君の魂魄が百数十人の精霊を華厳の巌頭に誘うたごとく生命の執着は「人生」を忘れ「自己」の存在を失いたる凡俗の・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫