・・・私は外套のポッケットへじっと両手をつっこんだまま、そこにはいっている夕刊を出して見ようと云う元気さえ起らなかった。 が、やがて発車の笛が鳴った。私はかすかな心の寛ぎを感じながら、後の窓枠へ頭をもたせて、眼の前の停車場がずるずると後ずさり・・・ 芥川竜之介 「蜜柑」
・・・ お日さまが、毎日、西の空へ沈みなさる時分から、一日も欠かしたことなく、私の下に立って夕刊を売る子供を、お日さまはごらんになったことはありませんか。 まだ、やっと十か、十一になったばかりであります。ひどい雨の降らないかぎりは、風の吹・・・ 小川未明 「煙突と柳」
・・・さっきいた夕刊売りももういない。新吉は地下鉄の構内なら夕刊を売っているかも知れないと思い、階段を降りて行った。 阪急百貨店の地下室の入口の前まで降りて行った時、新吉はおやっと眼を瞠った。 一人の浮浪者がごろりと横になっている傍に、五・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・ ところが夏も過ぎ秋が深くなって、金木犀の花がポツリポツリ中庭の苔の上に落ちる頃のある夕方、佐伯が町へ出ようとしてアパートの裏口に落ちていた夕刊をふと手にとって見ると、友田恭助が戦死したという記事が出ていた。佐伯はまるで棒をのみこんでし・・・ 織田作之助 「道」
・・・母親のお辰はセルロイド人形の内職をし、弟の信一は夕刊売りをしていたことは蝶子も知っていたが、それにしてもどうして工面して払ったのかと、瞼が熱くなった。それで、はじめて弟に五十銭、お辰に三円、種吉に五円、それぞれくれてやる気が出た。そこで貯金・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・ 満員の電車から終点へ下された人びとは皆働人の装いで、労働者が多かった。夕刊売りや鯉売りが暗い火を点している省線の陸橋を通り、反射燈の強い光のなかを黙々と坂を下りてゆく。どの肩もどの肩もがっしり何かを背負っているようだ。行一はいつもそう・・・ 梶井基次郎 「雪後」
・・・ 寒い街を歩いて夕刊売りの娘を見た。無造作な髪、嵐にあがる前髪の下の美しい額。だが自分から銅貨を受取ったときの彼女の悲しそうな目なざしは何だろう。道々いろいろなことが考えられる。理想的社会の建設――こうしたことまで思い及ぼされるようでな・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・龍介は天気ばかり気になり夕刊の天気予報で、機嫌よくなったり、不機嫌になったりした。自分でもその自分がとうとう滑稽になった。土曜日から天気が上った。龍介は初めて修学旅行へ行く小学生のような気持で、晩眠れなかった。その日彼は停車場へ行った。彼は・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・「ああ、寝よう。夕刊を枕頭に置いてくれ。」 翌る朝、私は九時頃に起きた。たいてい私は八時前に起床するのだが、大隅君のお相手をして少し朝寝坊したのだ。大隅君は、なかなか起きない。十時頃、私は私の蒲団だけさきに畳む事にした。大隅君は、私・・・ 太宰治 「佳日」
・・・お茶漬をたべて、夕刊を読んだ。汽車が走る。イマハ山中、イマハ浜、イマハ鉄橋ワタルゾト思ウマモナク、――その童女の歌が、あわれに聞える。「おい、炭は大丈夫かね。無くなるという話だが。」「大丈夫でしょう。新聞が騒ぐだけですよ。そのときは・・・ 太宰治 「鴎」
出典:青空文庫