・・・何しろYの事だから、床の間には石版摺りの乃木大将の掛物がかかっていて、その前に造花の牡丹が生けてあると云う体裁だがね。夕方から雨がふったのと、人数も割に少かったのとで、思ったよりや感じがよかった。その上二階にも一組宴会があるらしかったが、こ・・・ 芥川竜之介 「片恋」
・・・ 昆布岳の一角には夕方になるとまた一叢の雲が湧いて、それを目がけて日が沈んで行った。 仁右衛門は自分の耕した畑の広さを一わたり満足そうに見やって小屋に帰った。手ばしこく鍬を洗い、馬糧を作った。そして鉢巻の下ににじんだ汗を袖口で拭って・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・ 妻のところへ帰ると、僕のつく息が夕方よりも一層酒くさいため、また新らしい小言を聴かされたが、僕があやまりを言って、無事に済んだ。――しかし、妻のからだは、その夜、半ば死人のように固く冷たいような気がした。 二〇・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・どんな話をしたか忘れてしまったが、左に右く初めて来たのであるが、朝の九時ごろから夕方近くまで話して帰った。その間少しも姿勢をくずさないでキチンとしていた。一体行儀の好い男で、あぐらを掻くッてな事は殆んどなかった。いよいよ坐り草臥びれると能く・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・ 夕方であったのが、夜になって、的の黒白の輪が一つの灰色に見えるようになった時、女はようよう稽古を止めた。今まで逢ったこともないこの男が、女のためには古い親友のように思われた。「この位稽古しましたら、そろそろ人間の猟をしに出掛けられ・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
鳥屋の前に立ったらば赤い鳥がないていた。私は姉さんを思い出す。電車や汽車の通ってる町に住んでる姉さんがほんとに恋しい、なつかしい。もう夕方か、日がかげる。村の方からガタ馬車がらっぱを吹いて駆けてくる。・・・ 小川未明 「赤い鳥」
・・・「え、それは霊岸島の宿屋ですが……こうと、明日は午前何だから……阿母さん、明日夕方か、それとも明後日のお午過ぎには私が向うへ行きますからね、何とか返事を聞いて、帰りにお宅へ廻りましょう」 四 金之助の泊っているの・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・ 東京へ着いたのは、大阪を出て十八日目の夕方でした。桔梗屋のお内儀に教えてもらった文子の住居を、芝の白金三光町に探しあてたのは、その日の夜更け。文子は女中と二人暮しでもう寝ていましたが、表の戸を敲く音を旦那だと思って明けたところ、まるで・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 夕方近くになって、彼は晩の米を買う金を一円、五十銭と貰っては、帰って来る。と、彼は帰りの電車の中でつく/″\と考える。――いや、彼を使ってやろうというような人間がそんなのばかりなのかも知れないが。で彼は、彼等の酷使に堪え兼ねては、逃げ・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ また夕方、溪ぎわへ出ていた人があたりの暗くなったのに驚いてその門へ引返して来ようとするとき、ふと眼の前に――その牢門のなかに――楽しく電燈がともり、濛々と立ち罩めた湯気のなかに、賑やかに男や女の肢体が浮動しているのを見る。そんなとき人・・・ 梶井基次郎 「温泉」
出典:青空文庫