・・・ ことに日暮れ、川の上に立ちこめる水蒸気と、しだいに暗くなる夕空の薄明りとは、この大川の水をして、ほとんど、比喩を絶した、微妙な色調を帯ばしめる。自分はひとり、渡し船の舷に肘をついて、もう靄のおりかけた、薄暮の川の水面を、なんということ・・・ 芥川竜之介 「大川の水」
・・・竹杖は忽ち竜のように、勢よく大空へ舞い上って、晴れ渡った春の夕空を峨眉山の方角へ飛んで行きました。 杜子春は胆をつぶしながら、恐る恐る下を見下しました。が、下には唯青い山々が夕明りの底に見えるばかりで、あの洛陽の都の西の門は、どこを探し・・・ 芥川竜之介 「杜子春」
青黄ろく澄み渡った夕空の地平近い所に、一つ浮いた旗雲には、入り日の桃色が静かに照り映えていた。山の手町の秋のはじめ。 ひた急ぎに急ぐ彼には、往来を飛びまわる子供たちの群れが小うるさかった。夕餉前のわずかな時間を惜しんで・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ と急に大人びて空を見た。夕空にむらむらと嶽の堂を流れて出た、一団の雲の正中に、颯と揺れたようにドンと一発、ドドド、ドンと波に響いた。「三ちゃん、」「や、また爺さまが鴉をやった。遊んでるッて叱られら、早くいって圧えべい。」「・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・ するとそこには、いろいろの草が、一夜のうちに花を開いていたのです。 赤い花、白い花、紫の花、青い花、そして黄色な花もありました。 夕空に輝く星のように、また、海から上がったさまざまの貝がらのように、それらの花は美しく咲いていま・・・ 小川未明 「赤い船のお客」
・・・そのとき、なにか一つ黒い点のようなものが、夕空をこなたに向かってだんだん近づいてくるように見えたのであります。みんなはしばらく、目をみはってそのものに気をとられていました。「あれは、なんだろうか。こちらに向かってこいでいるようだ。」・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・赤い鳥は驚いて、雲をかすめて、ふたたび夕空を先刻きた方へと、飛んでいってしまいました。 子供は、しょんぼりとそこを立ち去りました。この哀れな有り様を見た若者は、群衆を憎らしく思いました。自分も困っていたのですけれど、まだわずかばかりの金・・・ 小川未明 「あほう鳥の鳴く日」
・・・ 希望なき安心の遅鈍なる生活もいつしか一月ばかり経って、豊吉はお花の唱歌を聞きながら、居眠ってばかりいない、秋の夕空晴れて星の光も鮮やかなる時、お花に伴われてかの小川の辺など散歩し、お花が声低く節哀れに唱うを聞けばその沈みはてし心かすか・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・五位鷺がギャアと夕空を鳴いて過ぎた。 その翌日も翌日も自分は同じ西袋へ出かけた。しかしどうした事かその少年に復び会うことはなかった。 西袋の釣はその歳限りでやめた。が、今でも時その日その場の情景を想い出す。そして現社会の何処かにその・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・美しい夕空を、ながいこと見つめたから、こんなにいい目になったのかしら。しめたものだ。 少し浮き浮きして台所へ行き、お米をといでいるうちに、また悲しくなってしまった。せんの小金井の家が懐かしい。胸が焼けるほど恋しい。あの、いいお家には、お・・・ 太宰治 「女生徒」
出典:青空文庫