・・・殺風景な下宿の庭に鬱陶しく生いくすぶった八つ手の葉蔭に、夕闇の蟇が出る頃にはますます悪くなるばかりである。何をするのも懶くつまらない。過ぎ去った様々の不幸を女々しく悔やんだり、意気地のない今の境遇に愛想をつかすのもこの頃の事である。自分のよ・・・ 寺田寅彦 「やもり物語」
・・・ 夕闇の底に、かえってくっきりとみえる野菊の一とむらがあるところで、彼女はしゃがんでそれをつみとりながら、顔をあおのけていった。「――青井は未来の代議士だって、妾も、信じますわ」 こいつ、ぱっぱ女学生だ――野菊の花をまさぐりなが・・・ 徳永直 「白い道」
・・・母さんお手水にと立って障子を明けると、夕闇の庭つづき、崖の下はもう真暗である。私は屋敷中で一番早く夜になるのは、古井戸のある彼の崖下……否、夜は古井戸の其底から湧出るのではないかと云う感じが、久しい後まで私の心を去らなかった。 私は小学・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ わたくしは枯蘆の中の水たまりに宵の明星がけいけいとして浮いているのに、覚えず立止って、出来もせぬ俳句を考えたりする中、先へ行く女の姿は早くも夕闇の中にかくれてしまったが、やがて稲荷前の電車停留場へ来ると、その女は電柱の下のベンチに腰を・・・ 永井荷風 「元八まん」
・・・ 二つの小さな姿が、川岸伝いに、川上の捲上小屋に駆けて行くのが、吹雪の灰色の夕闇の中に、影絵のように見えた。 二人の子供たちは、今まで、方々の仕事場で、幾つも幾つも、惨死した屍体を見るのに馴れていた。物珍らしそうに見ていたので、殴り・・・ 葉山嘉樹 「坑夫の子」
・・・本堂の廊から三つの堂を眺めた風景、重そうな茅屋根が夕闇にぼやけ、大銀杏の梢にだけ夕日が燃ゆる金色に閃いているのは、なかなか印象的であった。いかにも関東の古寺らしく、大まかに寂び廃れた趣きよし。関西の古寺とは違う。雰囲気が。 小僧夕方のお・・・ 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・遽しく鳴らす電車のベルの音が、次第に濃くなる夕闇に閉じ罩められたように響き出すと、私の歩調は自ら速めになった。もう私の囲りでは、誰一人呑気に飾窓などを眺めている者はない。何処からこれ程の人々が吐き出されて来たか、大抵一人で、連があっても男は・・・ 宮本百合子 「小景」
・・・次第に夕闇が濃くなると、彼は鳴きつつ小屋に一人入った。さがし疲れて、雄鳩は幾百の夜の思い出の中に眠った。が、眠りづらく、彼は屡々目がさめた。夢中で優しく体をすりよせたが、そこに雌はいず小屋の荒い羽目があった。 雄鳩は愕いて鳴いた。雄・・・ 宮本百合子 「白い翼」
・・・少し目の慣れるまで、歩き艱んだ夕闇の田圃道には、道端の草の蔭でこおろぎが微かに鳴き出していた。 * * * 二三日立ってから蔀君に逢ったので、「あれからどうしました」と僕が聞いたら、蔀君がこう云った。・・・ 森鴎外 「百物語」
・・・遽しい将官たちの往き来とソビエットに挟まれた夕闇の底に横たわりながら、ここにも不可解な新時代はもう来ているのかしれぬと梶は思った。「それより、君の光線の色はどんな色です。」と梶は話を反らせて訊ねた。「僕の光線は昼間は見えないけども、・・・ 横光利一 「微笑」
出典:青空文庫