・・・ 日が暮れかけて来たのでひとりで夕飯を食った。くろいめしに焼いた味噌をかてて食った。 夜になると風がやんでしんしんと寒くなった。こんな妙に静かな晩には山できっと不思議が起るのである。天狗の大木を伐り倒す音がめりめりと聞えたり、小屋の・・・ 太宰治 「魚服記」
・・・けれどこの三箇の釜はとうていこの多数の兵士に夕飯を分配することができぬので、その大部分は白米を飯盒にもらって、各自に飯を作るべく野に散った。やがて野のところどころに高粱の火が幾つとなく燃された。 家屋の彼方では、徹夜して戦場に送るべき弾・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・ 夕飯の膳には名物の岩魚や珍しい蕈が運ばれて来た。宿の裏の瀦水池で飼ってある鰻の蒲焼も出た。ここでしばらく飼うと脂気が抜けてしまうそうで、そのさっぱりした味がこの土地に相応しいような気もした。 宿の主人は禿頭の工合から頬髯まで高橋是・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・もう夕方だから早く廻らないと、どこの家でも夕飯の仕度がすんでしまって間にあわなくなる。しきりに気はあせるが、天秤棒は肩にめりこみそうに痛いし、気持も重くなって足もはかどらない。しまいには涙がでてきて、桶ごとこんにゃくも何もおっぽりだしたくな・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・先生は昔の事を考えながら、夕飯時の空腹をまぎらすためか、火の消えかかった置炬燵に頬杖をつき口から出まかせに、変り行く末の世ながら「いにしへ」を、「いま」に忍ぶの恋草や、誰れに摘めとか繰返し、うたふ隣のけいこ唄、宵はまちそして恨みて暁と、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ちょいと夕飯前に温泉に這入ろう。君いやか」「うん這入ろう」 圭さんと碌さんは手拭をぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒の貸下駄には都らしく宿の焼印が押してある。 二「この湯は何に利くんだろう」と豆腐屋の圭さん・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・―― 一人前の水夫になりかけていた、水夫見習は、もう夕飯の支度に取りかからねばならない時刻になった。 で、彼は水夫等と一緒にしていた「誇るべき仕事」から、見習の仕事に帰るために、夕飯の準備をしに、水夫室へ入った。 ギラギラす・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
・・・或夜夕飯も過ぎて後、宿屋の下女にまだ御所柿は食えまいかというと、もうありますという。余は国を出てから十年ほどの間御所柿を食った事がないので非常に恋しかったから、早速沢山持て来いと命じた。やがて下女は直径一尺五寸もありそうな錦手の大丼鉢に山の・・・ 正岡子規 「くだもの」
・・・そこが夫婦の寝起きの場所で夕飯が始まったらしい。彼等も今晩は少しいつもと異った心持らしく低声で話し、間に箸の音が聞えた。 陽子はコーンビーフの罐を切りかけた、罐がかたく容易に開かない、木箱の上にのせたり畳の上に下したり、力を入れ己れの食・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・ 今頃お前、夕飯前でこれから焚くとこやがな。」「ちょびっとでも好えがな。」「じゃ見て来てやるわ。」 お霜は台所へ這入った。勘次は表へ出て北の方を眺めてみたが、秋三の姿は竹藪の向うに消えていた。彼は又秋三とひと争いをしなければなら・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫