・・・ 夜中雨が降って翌朝は少し小降りにはなったがいつ止むとも見えない。宿の番傘を借りて明神池見物に出掛けた。道端の熊笹が雨に濡れているのが目に沁みるほど美しい。どこかの大きな庭園を歩いているような気もする。有名な河童橋は河風が寒く、穂高の山・・・ 寺田寅彦 「雨の上高地」
・・・ 道太は裏の家に大散財があったので、昨夜は夜中に寝床を下へもってきてもらって、姉妹たちの隣りの部屋に蚊帳を釣っていた。冷え冷えした風が流れていた。お絹はお芳に手伝わせて、しまってあった障子を持ちだしたりした。「しかし姉さんはお芳さん・・・ 徳田秋声 「挿話」
・・・十歳を越えて猶、夜中一人で、厠に行く事の出来なかったのは、その時代に育てられた人の児の、敢て私ばかりと云うではあるまい。 父は内閣を「太政官」大臣を「卿」と称した頃の官吏の一人であった。一時、頻と馬術に熱心して居られたが、それも何時しか・・・ 永井荷風 「狐」
・・・天下に夜中棺桶を担うほど、当然の出来事はあるまいと、思い切った調子でコツコツ担いで行く。闇に消える棺桶をしばらくは物珍らし気に見送って振り返った時、また行手から人声が聞え出した。高い声でもない、低い声でもない、夜が更けているので存外反響が烈・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ 泥棒じゃあるめえし、夜中に踏み込まなくたって、逃げも隠れもしやしねえよ」 吉田は、そう考えることによって、何かのいい方法を――今までにもう幾度か最後の手段に出た方がいい、と考えたにも拘らず、改めて又、――いい方法を、と、それが汗の・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・ * 夜中にホモイは眼をさましました。 そしてこわごわ起きあがって、そっと枕もとの貝の火を見ました。貝の火は、油の中で魚の眼玉のように銀色に光っています。もう赤い火は燃えていませんでした。 ホモイは大声で泣き出し・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・けれども、これらの文章の大体は、私たちが夜中にも立ち出て見送った兵士たちの生活と、何とかけはなれているだろう。女というものをめぐって扱われている部分だけ見較べても、胸迫る感想があるのである。今日はどこ、明日はどこと見てまわって、書かれた文章・・・ 宮本百合子 「明日の言葉」
・・・彼はこのベランダで夜中眼が醒める度に妻より月に悩まされた。月は絶えず彼の鼻の上にぶらさがったまま皎々として彼の視線を放さなかった。その海の断面のような月夜の下で、花園の花々は絶えず群生した蛾のようにほの白い円陣を造っていた。そうして月は、そ・・・ 横光利一 「花園の思想」
保険会社の役人テオドル・フィンクは汽車でウィインからリヴィエラへ立った。途中で旅行案内を調べて見ると、ヴェロナへ夜中に着いて、接続汽車を二時間待たなくてはならないということが分かった。一体気分が好くないのだから、こんなことを見付けて見・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・前の晩にすでに開いているのもある。夜中に開くのもある。明け方に音がするというのは変な話だという。そういわれてみると、蓮の花が日光のささない時刻に、すなわち暗くて人に見えずまた人の見ない時刻に、開くのであるということ、そのために常人の判断に迷・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫