・・・八重は夜具を敷く前、塵を掃出すために縁側の雨戸を一枚あけると、皎々と照りわたる月の光に、樹の影が障子へうつる。八重はあしたの晩、哥沢節のさらいに、二上りの『月夜烏』でも唱おうかという時、植込の方で烏らしい鳥の声がしたので、二人は思わず顔を見・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・太織の夜具のなかなる余はいよいよ寒かった。 暁は高い欅の梢に鳴く烏で再度の夢を破られた。この烏はかあとは鳴かぬ。きゃけえ、くうと曲折して鳴く。単純なる烏ではない。への字烏、くの字烏である。加茂の明神がかく鳴かしめて、うき我れをいとど寒が・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」「海老のようになるって?」「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」「妙だね」「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を・・・ 夏目漱石 「二百十日」
・・・ 六 万客の垢を宿めて、夏でさえ冷やつく名代部屋の夜具の中は、冬の夜の深けては氷の上に臥るより耐えられぬかも知れぬ。新造の注意か、枕もとには箱火鉢に湯沸しが掛かッて、その傍には一本の徳利と下物の尽きた小皿とを載せた盆・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・せなかに大きな桔梗の紋のついた夜具をのっしりと着込んで鼠色の袋のような袴をどふっとはいておりました。そして大きな青い縞の財布を出して、「くるまちんはいくら。」とききました。 俥屋はもう疲れてよろよろ倒れそうになっていましたがやっとの・・・ 宮沢賢治 「紫紺染について」
・・・お前さんも今のうちに、いい夜具のしたくをしておいた方がいいだろう。幸いぼくのすぐ頭の上に、すずめが春持って来た鳥の毛やいろいろ暖かいものがたくさんあるから、いまのうちに、すこしおろして運んでおいたらどうだい。僕の頭は、まあ少し寒くなるけれど・・・ 宮沢賢治 「ツェねずみ」
・・・上り端の四畳に、夜具包が駅から着いたままころがしてある。今日は主の爺さんがいた。「勝手に始末しても悪かろうと思って――私が持って行って上げましょう」 縞の着物を着、小柄で、顔など女のように肉のついた爺は、夜具包みや、本、食品などつめ・・・ 宮本百合子 「明るい海浜」
・・・獄中の鶴次郎さんに差入れる夜具布団を自分で家から背負って持って行った。そういう窮乏状態であった。私共は、その時分謂わば財布も一つ、心も一つという工合で、必死の生活をやっていたのであったが、稲子さんは、この布団を背負って行ったということを、そ・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・燈心に花が咲いて薄暗くなった、橙黄色の火が、黎明の窓の明りと、等分に部屋を領している。夜具はもう夜具葛籠にしまってある。 障子の外に人のけはいがした。「申し。お宅から急用のお手紙が参りました」「お前は誰だい」「お表の小使でござい・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・ 彼は足に纏わる絹の夜具を蹴りつけた。「余は、余は」 彼は張り切った綱が切れたように、突如として笑い出した。だが、忽ち彼の笑声が鎮まると、彼の腹は獣を入れた袋のように波打ち出した。彼はがばと跳ね返った。彼の片手は緞帳の襞をひっ攫・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
出典:青空文庫