・・・の看板がかかっていたり、芝居の小道具づくりの家であったり、芸者の置屋であったり、また自前の芸者が母親と猫と三人で住んでいる家であったりして、長屋でありながら電話を引いている家もあるというばかりでなく、夜更けの方が賑かだという点でも変っていて・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ 運転手に虐待されても相変らず働いていたのは品子をものにしたという勝利感からであったが、ある夜更け客を送って飛田遊廓の××楼まで行くと、運転手は、「どや、遊んで行こうか。ここは飛田一の家やぜ」 どうせ朝まで客は拾えないし、それに・・・ 織田作之助 「雨」
・・・子供に飯を食べさせている最中に飛び出して来たという女のあわて方は、彼等の夫婦関係がただごとでない証拠だと、新吉は独断していた。夜更けの時間のせいかも知れない。 しかし、ふと女が素足にはいていた藁草履のみじめさを想いだすと、もう新吉は世間・・・ 織田作之助 「郷愁」
・・・ 湿っぽい夜更けの風の気持好く吹いて来る暗い濠端を、客の少い電車が、はやい速力で駛った。生存が出来なくなるぞ! 斯う云ったKの顔、警部の顔――併し実際それがそれ程大したことなんだろうか。「……が、子供等までも自分の巻添えにするという・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・そして下宿へも帰れずに公園の中をうろついているとか、またはケチな一夜の歓楽を買おうなどと寒い夜更けに俥にも乗れずに歩いている時とか、そういったような時に、よくその亡霊に出会したというのであった。「……そんな場合の予感はあるね。変にこう身・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・ 二 どうして喬がそんなに夜更けて窓に起きているか、それは彼がそんな時刻まで寝られないからでもあった。寝るには余り暗い考えが彼を苦しめるからでもあった。彼は悪い病気を女から得て来ていた。 ずっと以前彼はこんな夢を・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓のない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくの・・・ 梶井基次郎 「温泉」
・・・月が欠けるに随って、K君もあんな夜更けに海へ出ることはなくなりました。 ある朝、私は日の出を見に海辺に立っていたことがありました。そのときK君も早起きしたのか、同じくやって来ました。そして、ちょうど太陽の光の反射のなかへ漕ぎ入った船を見・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・宵のうち人びとが掴まされたビラの類が不思議に街の一と所に吹き溜められていたり、吐いた痰がすぐに凍り、落ちた下駄の金具にまぎれてしまったりする夜更けを、彼は結局は家へ帰らねばならないのだった。「何をしに自分は来たのだ」 それは彼のなか・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ その後教師都に帰りてより幾年の月日経ち、ある冬の夜、夜更けて一時を過ぎしに独り小机に向かい手紙認めぬ。そは故郷なる旧友の許へと書き送るなり。そのもの案じがおなる蒼き色、この夜は頬のあたりすこし赤らみておりおりいずこともなくみつむるまな・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫