・・・ その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。「それはあなたにも立ち勝った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」 その新しい神と云うのは、泥烏須を・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・又私の処で夜おそくまで科学上の議論をしていた一人の若い科学者は、帰途晴れ切った冬の夜空に、探海燈の光輝のようなものが或は消え或は現われて美しい現象を呈したのを見た。彼は好奇心の余り、小樽港に碇泊している船について調べて見たが、一隻の軍艦もい・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・ライオンハミガキの広告灯が赤になり青になり黄に変って点滅するあの南の夜空は、私の胸を悩ましく揺ぶり、私はえらくなって文子と結婚しなければならぬと、中等商業の講義録をひもとくのだったが、私の想いはすぐ講義録を遠くはなれて、どこかで聞えている大・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・赤玉が屋上にムーラン・ルージュをつけて道頓堀の夜空を赤く青く染めると、美人座では二階の窓に拡声機をつけて、「道頓堀行進曲」「僕の青春」「東京ラプソディ」などの蓮ッ葉なメロディを戎橋を往き来する人々の耳へひっきりなしに送っていた。拡声機から流・・・ 織田作之助 「世相」
「歩哨に立って大陸の夜空を仰いでいるとゆくりなくも四ッ橋のプラネタリュウムを想いだした……」と戦地の友人から便りがあったので、周章てて四ッ橋畔の電気科学館へ行き六階の劇場ではじめてプラネタリュウムを見た。 感激した。陶酔・・・ 織田作之助 「星の劇場」
・・・――燈火を赤く反映している夜空も、そのなかにときどき写る青いスパークも。……しかしどこかからきこえて来た軽はずみな口笛がいまのソナタに何回も繰り返されるモティイフを吹いているのをきいたとき、私の心が鋭い嫌悪にかわるのを、私は見た。 休憩・・・ 梶井基次郎 「器楽的幻覚」
・・・左手には溪の向こうを夜空を劃って爬虫の背のような尾根が蜿蜒と匍っている。黒ぐろとした杉林がパノラマのように廻って私の行手を深い闇で包んでしまっている。その前景のなかへ、右手からも杉山が傾きかかる。この山に沿って街道がゆく。行手は如何ともする・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・私の夜空を眺めるとき、あの空に散りばめた星と星との背後に透視画的の運命のつながりがあり、それが私たち地上の別れた哀れな人間たちの運命の絆を象徴しているのではあるまいかというようなことも思い浮かべられるのである。別るるや夢一とすぢの天・・・ 倉田百三 「人生における離合について」
・・・溜息をついて傘を持ち直し、暗い夜空を見上げたら、雪が百万の蛍のように乱れ狂って舞っていました。きれいだなあ、と思いました。道の両側の樹々は、雪をかぶって重そうに枝を垂れ時々ためいきをつくように幽かに身動きをして、まるで、なんだか、おとぎばな・・・ 太宰治 「雪の夜の話」
・・・両側の岸には真黒な森が高く低く連なって、その上に橋をかけたように紫紺色の夜空がかかっていた。夥しい星が白熱した花火のように輝いていた。 やがて森の上から月が上って来た。それがちょうど石鹸球のような虹の色をして、そして驚くような速さで上っ・・・ 寺田寅彦 「夢」
出典:青空文庫