・・・ 織次は夜道をただ、夢中で本の香を嗅いで歩行いた。 古本屋は、今日この平吉の家に来る時通った、確か、あの湯屋から四、五軒手前にあったと思う。四辻へ行く時分に、祖母が破傘をすぼめると、蒼く光って、蓋を払ったように月が出る。山の形は骨ば・・・ 泉鏡花 「国貞えがく」
・・・ 私はここから四十里余り隔たった、おなじ雪深い国に生れたので、こうした夜道を、十町や十五町歩行くのは何でもないと思ったのであります。 が、その凄じさといったら、まるで真白な、冷い、粉の大波を泳ぐようで、風は荒海に斉しく、ごうごうと呻・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・樹立の暗くなった時、一度下して、二人して、二人が夜道の用意をした、どんつくの半纏を駕籠の屋根につけたのを、敷かせて、一枚。一枚、背中に当がって、情に包んでくれたのである。 見上ぐる山の巌膚から、清水は雨に滴って、底知れぬ谷暗く、風は梢に・・・ 泉鏡花 「栃の実」
・・・ところが、そのうどん屋では酒も出すので、寒い夜道を疲れて帰った時などつい飲みたくなる。もともといける口だし、借も利くので、つい飲みすごしてしまう。私はもうたいした野心もなく、大金持になろうなどと思ってはいなかったというものの、勘当されている・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・私はひとり、古谷君の宅を出た。私は夜道を歩いて、ひどく悲しくなり、小さい声で、 わたしゃ 売られて行くわいな というお軽の唄をうたった。 突如、実にまったく突如、酔いが発した。ひや酒は、たしかに、水では無かった。ひどく酔って・・・ 太宰治 「酒の追憶」
・・・と大きな声で言って、「お前たちには、信仰が無いから、こんな夜道にも難儀するのだ。僕には、信仰があるから、夜道もなお白昼の如しだね。ついて来い。」 と、どんどん先に立って歩きました。 どこまで正気なのか、本当に、呆れた主人であります。・・・ 太宰治 「十二月八日」
・・・わがかなしみ 夜道を歩いていると、草むらの中で、かさと音がする。蝮蛇の逃げる音。文章について 文士というからには、文に巧みなるところなくては、かなうまい。佳き文章とは、「情籠りて、詞舒び、心のままの誠を歌い出・・・ 太宰治 「もの思う葦」
・・・私の血縁の一人は夜道で誤って突き当たった人と切り合って相手を殺し自分は切腹した。それが今では法律に触れない限り、自分のめがねで見て気に入らない人間なら、足を踏みつけておいて、さかさまにののしるほうが男らしくていいのである。そういう事を道楽の・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・と呼び歩くというのがあって、われわれはよく夜道を歩きながらそのたぬきのまねをするつもりで「カキャゴー」「カキャゴー」と叫び歩き、そうして自分で自分の声におびえることによって不思議な神秘の感覚を味わい享楽したものであった。 北の山奥から時・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・ お絹は電話で、昨夜道太が行った料亭へ朝飯を註文した。「御飯も持ってきてね、一人前」 それからまた台所の方にいたかと思うと、道太が間もなく何か取りかたがた襦袢を著に二階へあがったころには、お絹は床をあげて、彼の脱ぎ棄ての始末をし・・・ 徳田秋声 「挿話」
出典:青空文庫