・・・思えばかえって不思議にも、今日という今日まで生残った江戸音曲の哀愁をば、先生はあたかも廓を抜け出で、唯一人闇の夜道を跣足のままにかけて行く女のようだと思っている。たよりの恋人に出逢った処で、末永く添い遂げられるというではない。互に手を取って・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・遠くにちらつく燈火を目当に夜道を歩み、空腹に堪えかねて、見あたり次第、酒売る家に入り、怪しげな飯盛の女に給仕をさせて夕飯を食う。電燈の薄暗さ。出入する客の野趣を帯びた様子などに、どうやら『膝栗毛』の世界に這入ったような、いかにも現代らしくな・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・よほど遠くから出て来るものと見え、いつでも鞋に脚半掛け尻端打という出立で、帰りの夜道の用心と思われる弓張提灯を腰低く前で結んだ真田の三尺帯の尻ッぺたに差していた。縁日の人出が三人四人と次第にその周囲に集ると、爺さんは煙管を啣えて路傍に蹲踞ん・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・さらでも歩きにくい雪の夜道の足元が、いよいよ危くなり、娘の手を握る手先がいつかその肩に廻される。のぞき込む顔が接近して互の頬がすれ合うようになる。あたりは高座で噺家がしゃべる通り、ぐるぐるぐるぐる廻っていて、本所だか、深川だか、処は更に分ら・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・ 二人は、寒い夜道を、とぼとぼと歩きながら淋しい声で辛い話をしつづけて居た。「哀れなお君を面倒見てやって下さい、 私の一生の願いやさかいな。 ほんにとっくり聞いといで下さる様にな。 貴方さえ、しっかり後楯になっとって・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・パリセードよりダイクマンまで長く歩き、夜道をしながら。省吾さんのことについて議論する。 二十九日 午前中に、宮武が来る。原稿のこと、並、坪内ホームスのこと。五月四日の夜、Sunday――Aと Brick Church に行き、カー・・・ 宮本百合子 「「黄銅時代」創作メモ」
・・・すっかり日がくれ提灯の明りをたよりに夜道を帰って来た。 Mよりきいた話。――承法のこと。雨が降りチング雪が降りチングで喧嘩になったこと。公案の外国語訳のこと。〔一九二七年一月〕 宮本百合子 「金色の秋の暮」
・・・ 夜道がこわい、自分に声をかける人間がおそろしい、雨の降る日に、このかさに入ってらっしゃいとさそってくれる人がウス気味悪い、そういう社会の生活は、何と悲しいだろう。戦争というものは、戦争そのものが残酷なばかりでなく、その戦争によってこわ・・・ 宮本百合子 「戦争でこわされた人間性」
・・・ ――○―― 辺□(な暗いばっかりで何のしなもない夜道を二人はぴったりならんで歩いた。そして若い女達がよくする様にお互に手をにぎりっこして水溜り等に来かかると、水溜の上に二人の手でアーチを作ってとび越えたりした。小・・・ 宮本百合子 「千世子(三)」
・・・天井から新式な大電燈が煌々と輝いて、今あんな原っぱの夜道を通って来たということが信じられぬような印象を与える。小ざっぱりした平常着姿で本をもったりギターをもったりしている男女労働者に交って廊下へ出ると、つき当りは大舞台の入口だ。「――今・・・ 宮本百合子 「ドン・バス炭坑区の「労働宮」」
出典:青空文庫