・・・私は、夢遊病患者のように、茫然として妻に近づきました。が、妻には、第二の私が眼に映じなかったのでございましょう。私が側へ参りますと、妻はいつもの調子で、「長かったわね」と申しました。それから、私の顔を見て、今度はおずおず「どうかして」と尋ね・・・ 芥川竜之介 「二つの手紙」
・・・乞食はほとんど夢遊病者のように、目はやはり上を見たまま、一二歩窓の下へ歩み寄った。保吉はやっと人の悪い主計官の悪戯を発見した。悪戯?――あるいは悪戯ではなかったかも知れない。なかったとすれば実験である。人間はどこまで口腹のために、自己の尊厳・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり路の小石を二つ三つ掴んで入口の硝子戸にたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵にくだけて飛び散った。彼れは・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・そして彼らの方に二十二、三に見える一人の青年が夢遊病者のように足もともしどろに歩いて来るのを見つけた。クララも月影でその青年を見た。それはコルソの往還を一つへだてたすぐ向うに住むベルナルドーネ家のフランシスだった。華美を極めた晴着の上に定紋・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・状勢については絶えず相応に研究して露国の暗流に良く通じていたが、露西亜の官民の断えざる衝突に対して当該政治家の手腕器度を称揚する事はあっても革命党に対してはトンと同感が稀く、渠らは空想にばかり俘われて夢遊病的に行動する駄々ッ子のようなものだ・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・ば山をも川をも知らで来にけり冬ごもり春の大野を焼く人は焼きたらぬかもわが心焼くかくのみにありけるものを猪名川の奥を深めて吾が念へりける 死ぬほどの恋も容易に口に出さず、逢いたくなっては夢遊病者のように山川を越え、思いに焦げて・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・(夢遊病者の如くほとんど無表情で歩き、縁側から足袋僕も行く。野中教師、ほとんど歩行困難の様子だが、よろめき、よろめき、足袋はだしのまま奥田教師たちのあとを追い下手に向う。節子、冷然と坐ったままでいたのであるが、ふ・・・ 太宰治 「春の枯葉」
・・・◎しかも猶 夢遊病者として感ずるのは何故であるか? p.220 解答○彼の宇宙は世界ではなくて ただ人間だけである。風景に対して魯鈍である。p.221○汎神主義の貴重な五穀が欠けている。長閑さの欠乏、 ツ・・・ 宮本百合子 「ツワイク「三人の巨匠」」
出典:青空文庫