・・・まあ、本当に迷ってしまっている女にだって、何もかも大きな声ではっきりそう言えとおっしゃることは、男の方にも出来ますまい。ところで何を打ち明けるにも、微かな溜息とか、詞のちょいとした不思議な調子とか云うものしか持ち合せない女が、まだ八分通りし・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「辻馬車」
・・・ 暗い外で客と話している俥夫の大きな声がした。間もなく、門口の八つ手の葉が俥の幌で揺り動かされた。俥夫の持った舵棒が玄関の石の上へ降ろされた。すると、幌の中からは婦人が小さい女の子を連れて降りて来た。「いらっしゃいませ。今晩はま・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・あそこで地極の夜が人を威している。あそこで大きな白熊がうろつき、ピングィン鳥が尻を据えて坐り、光って漂い歩く氷の宮殿のあたりに、昔話にありそうな海象が群がっている。あそこにまた昔話の磁石の山が、舟の釘を吸い寄せるように、探険家の心を始終引き・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・ 出口の大きな扉の所に来た。 そこを出て、夢中で、これまで見たことのない菩提樹の並木の間を、町の方へ走った。心のうちには、「どうも己には分からない、どうも己には分からない」と云い続けているのである。 初めての郵便車が停車場へ向い・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・勿論何のことか判然聞取なかったんですが、ある時茜さす夕日の光線が樅の木を大きな篝火にして、それから枝を通して薄暗い松の大木にもたれていらっしゃる奥さまのまわりを眩く輝かさせた残りで、お着衣の辺を、狂い廻り、ついでに落葉を一と燃させて行頃何か・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・洋画家が日本画家のような大きな画題を捕えないのは、一つには目前に在るものの美しさに徹するということが、十分彼らの心情を充たすに足る大事業であるためであり、二つには目前の自然をさえ十分にコナし得ないものが、歴史的な、あるいは超自然的な形象を描・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫