・・・僕はやはり木枕をしたまま、厚い渋紙の表紙をかけた「大久保武蔵鐙」を読んでいました。するとそこへ襖をあけていきなり顔を出したのは下の部屋にいるM子さんです。僕はちょっと狼狽し、莫迦莫迦しいほどちゃんと坐り直しました。「あら、皆さんはいらっ・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・ 六「昨年のことで、妙にまたいとこはとこが搦みますが、これから新宿の汽車や大久保、板橋を越しまして、赤羽へ参ります、赤羽の停車場から四人詰ばかりの小さい馬車が往復しまする。岩淵の渡場手前に、姉の忰が、女房持で水呑・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・下らぬ比較をするようだが、この三君を維新の三傑に比べたなら高田君は大久保甲東で、天野君は木戸である。大西郷の役廻りはドウシテモ坪内君に向けなければならぬ。坪内君がいなかったら早稲田は決して今日の隆盛を見なかったであろう。 文芸協会の成功・・・ 内田魯庵 「明治の文学の開拓者」
・・・ 石川五右衛門も国定忠治も死刑となった、平井権八も鼠小僧も死刑となった、白木屋お駒も八百屋お七も死刑となった、大久保時三郎も野口男三郎も死刑となった、と同時に一面にはソクラテスもブルノーも死刑となった、ペロプスカヤもオシンスキーも死刑と・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・私は大久保彦左衛門の役を買います。お兄さんは、但馬守だ。かならず、うまくいきますよ。但馬守だって何だって、彦左の横車には、かないますまい。」「けれども、」弱い十兵衛は、いたずらに懐疑的だ。「なるべくなら、そんな横車なんか押さないほうがい・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・友人は、薔薇に就いては苦労して来たひとである。大久保の自宅の、狭い庭に、四、五十本の薔薇を植えている。「でも、これを売りに来た女は、贋物だったんだぜ。」と私は、瞞された顛末を早速、物語って聞かせた。「商人というものは、不必要な嘘まで・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・ 二、三年前Sと大久保余丁町の友人Mを尋ねての帰りに電車通りへ出ると、そこの路地の入口に一台の立派な自動車が止まっていた。そこへ折から乗込む女を見るとそれが紛れもない有名な人気女優のMYであった。劇場から差しむけの迎えの自動車であろうか・・・ 寺田寅彦 「初冬の日記から」
・・・ 大久保に住んでいたころである。その頃家にいたお房という女とつれ立って、四谷通へ買物に出かける。市ヶ谷饅頭谷の貧しい町を通ると、三月の節句に近いころで、幾軒となく立ちつづく古道具屋の店先には、雛人形が並べてあったのを、お房が見てわたくし・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・今の大久保に地面を買われたのはずっと後の事である。 私は飯田町や一番町やまたは新しい大久保の家から、何かの用事で小石川の高台を通り過る折にはまだ二十歳にもならぬ学生の裏若い心の底にも、何とはなく、いわば興亡常なき支那の歴代史を通読した時・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・それが自分の運命だ、河を隔て堀割を越え坂を上って遠く行く、大久保の森のかげ、自分の書斎の机にはワグナアの画像の下にニイチェの詩ザラツストラの一巻が開かれたままに自分を待っている……明治四十一年十二月作・・・ 永井荷風 「深川の唄」
出典:青空文庫