・・・気味悪い狐の事は、下女はじめ一家中の空想から消去って、夜晩く行く人の足音に、消魂しく吠え出す飼犬の声もなく、木枯の風が庭の大樹をゆする響に、伝通院の鐘の音はかすれて遠く聞える。しめやかなランプの光の下に、私は母と乳母とを相手に、暖い炬燵にあ・・・ 永井荷風 「狐」
・・・ かんかららんは長い橋の袂を左へ切れて長い橋を一つ渡って、ほのかに見える白い河原を越えて、藁葺とも思われる不揃な家の間を通り抜けて、梶棒を横に切ったと思ったら、四抱か五抱もある大樹の幾本となく提灯の火にうつる鼻先で、ぴたりと留まった。寒・・・ 夏目漱石 「京に着ける夕」
・・・然し、足にまかせ、あの暢やかなスロープと、楠の大樹と、多分馬酔木というのだろう、白い、房々した、振ったら珊々と変に鳴りそうな鈴形小花をつけた矮樹の繁みとで独特な美に満ちている公園を飽かず歩き廻った。三月末から四月五六日頃にかけての奈良の自然・・・ 宮本百合子 「宝に食われる」
・・・ 若葉でいっぱいに飾られたゴムの大樹、一面の芝原、うつむいて御馳走のふたをとろうとしていた淑貞が、にわかに頭を擡げた瞬間にシャッターがきられている。淑貞の「顔一杯の嬌笑、それは驚きと喜びと情熱の哄笑です。生々とした眸、むき出された雪白の・・・ 宮本百合子 「春桃」
東京の郊外で夏を送っていると、時々松風の音をなつかしく思い起こすことがある。近所にも松の木がないわけではないが、しかし皆小さい庭木で、松籟の爽やかな響きを伝えるような亭々たる大樹は、まずないと言ってよい。それに代わるものは欅の大樹で、・・・ 和辻哲郎 「松風の音」
出典:青空文庫