・・・おれ一人衆苦の大海に、没在していると考えるのは、仏弟子にも似合わぬ増長慢じゃ。『増長驕慢、尚非世俗白衣所宜。』艱難の多いのに誇る心も、やはり邪業には違いあるまい。その心さえ除いてしまえば、この粟散辺土の中にも、おれほどの苦を受けているものは・・・ 芥川竜之介 「俊寛」
・・・「はあ、いまさらにお恥かしい。大海蒼溟に館を造る、跋難佗竜王、娑伽羅竜王、摩那斯竜王。竜神、竜女も、色には迷う験し候。外海小湖に泥土の鬼畜、怯弱の微輩。馬蛤の穴へ落ちたりとも、空を翔けるは、まだ自在。これとても、御恩の姫君。事おわして、・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・近代小説という大海に注ぐには、心境小説的という小河は、一度主流の中へ吸い込まれてしまう必要があるのだ。例えば志賀直哉の小説は、小説の要素としての完成を示したかも知れないが、小説の可能性は展開しなかった。このことは、小説というものについて、こ・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・豊吉はこの時つくづくわが生涯の流れももはや限りなき大海近く流れ来たのを感じた。われとわが亡友との間、半透明の膜一重なるを感じた。 そうでない、ただかれは疲れはてた。一杯の水を求めるほどの気もなくなった。 豊吉は静かに立ち上がって河の・・・ 国木田独歩 「河霧」
・・・谷川の水、流れとともに大海に注がないで、横にそれて別に一小沢を造り、ここに淀み、ここに腐り、炎天にはその泥沸き、寒天にはその水氷り、そしてついには涸れゆくをまつがごときである。しかしかれと対座してその眼を見、その言葉をきくと、この例でもなお・・・ 国木田独歩 「まぼろし」
・・・ 船は追手の風で浪の上をすらすらと走って、間もなく大きな大海の真中へ出ました。 そうすると、さっきのむく犬が、用意してある百樽のうじ虫をみんな魚におやりなさいと言いました。ウイリイはすぐに樽をあけて、うじ虫をすっかり海へ投げこみまし・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・それは大海の孤島に緑の葉の繁ったふとい樹木が一本生えていて、その樹の蔭にからだをかくして小さい笛を吹いているまことにどうも汚ならしいへんな生き物がいる。かれは自分の汚いからだをかくして笛を吹いている。孤島の波打際に、美しい人魚があつまり、う・・・ 太宰治 「十五年間」
・・・何せ眉山の大海といってね、有名なものなんだからね、その足でやられたんじゃ、ミソも変じてクソになるのは確かだ。」「何だか、知りませんがね、とにかくあのおミソは使い物になりやしませんから、いまトシちゃんに捨てさせました。」「全部か? そ・・・ 太宰治 「眉山」
・・・山を韋駄天ばしりに駈け下りみちみち何百本もの材木をかっさらい川岸の樫や樅や白楊の大木を根こそぎ抜き取り押し流し、麓の淵で澱んで澱んでそれから一挙に村の橋に突きあたって平気でそれをぶちこわし土手を破って大海のようにひろがり、家々の土台石を舐め・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・一皿の水を化して大海とするのである。 政府の所属で、各種科学の特殊な専門的題目の研究所として看板をかけた処では、比較的にいくらか自由である。しかし、例えば蚯蚓の研究所で鯨の研究をやりたいといったような場合には、ともかくも一応上長官の諒解・・・ 寺田寅彦 「学問の自由」
出典:青空文庫