・・・久保田君の主人公も、常にこの頑固さ加減を失う能わず。これ又チエホフの主人公と、面目を異にする所以なり。久保田君と君の主人公とは、撓めんと欲すれば撓むることを得れども、折ることは必しも容易ならざるもの、――たとえば、雪に伏せる竹と趣を一にすと・・・ 芥川竜之介 「久保田万太郎氏」
・・・むしろ智高を失うとも、敢て朝廷を誣いて功を貪らじ』これは道徳的に立派なばかりではない。真理に対する態度としても、望ましい語でしょう。ところが遺憾ながら、西南戦争当時、官軍を指揮した諸将軍は、これほど周密な思慮を欠いていた。そこで歴史までも『・・・ 芥川竜之介 「西郷隆盛」
・・・芸術家の尊厳を失うほどきちんと片づけちゃだめだよ。美的にそこいらを散らかすのを忘れちゃいかんぜ。そこで俺はと……俺はドモ又をドモ又の弟に仕立て上げる役目にまわるから……おまえの画はたいてい隣の部屋にあるんだろう。これはおまえんだ。これもこれ・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・それがだんだんと先に行くに従って道と道とは相失うほどの間隔となり、分岐点に立って見渡すとも、交叉点のありやなしやが危まれる遠さとなる。初めのうちは青い道を行ってもすぐ赤い道に衝当たるし、赤い道を辿っても青い道に出遇うし、欲張って踏み跨がって・・・ 有島武郎 「二つの道」
・・・躁がず、舞上げ、舞下る浪の呼吸を量りて、浮きつ沈みつ、秘術を尽して漕ぎたりしが、また一時暴増る風の下に、瞻るばかりの高浪立ちて、ただ一呑と屏風倒に頽れんずる凄じさに、剛気の船子もあなやと驚き、腕の力を失う隙に、艫はくるりと波に曳れて、船は危・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・君は先年長男子を失うたときには、ほとんど狂せんばかりに悲嘆したことを僕は知っている。それにもかかわらず一度異境に旅寝しては意外に平気で遊んでいる。さらばといって、君に熱烈なある野心があるとも思えない。ときどきの消息に、帰国ののちは山中に閑居・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・ 天災地変の禍害というも、これが単に財産居住を失うに止まるか、もしくはその身一身を処決して済むものであるならば、その悲惨は必ずしも惨の極なるものではない。一身係累を顧みるの念が少ないならば、早く禍の免れ難きを覚悟したとき、自ら振作するの・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・ 学校に於ける画一教育の長所と短所は、すでに世論によって明にされたるが如く、彼等の、社会的という言葉の意味は、個性を没却し、特色を失うということであってはならない、全国一様の教科書は、単に学術的知識を教うるに役立つけれど、その知識が・・・ 小川未明 「新童話論」
・・・最愛の子を失うた親の悲しみも、月日が経てば忘れ得る。総ては時の裁断に待つのみだ。たゞ人間の理想も幸福もみな刹那的なもので、軈て最後は絶滅すると云う、永久に変ることのない、亡びるものゝ悩みがある。昔から虚無の思想に到達したものは歓喜を見ない。・・・ 小川未明 「波の如く去来す」
・・・より三世、即ち彼の祖父に至る間は相当の資産をもち、商を営み農を兼ね些かの不自由もなく安楽に世を渡って来たが、彼の父新助の代となるや、時勢の変遷に遭遇し、種々の業を営んだが、事ごとに志と違い、徐々に産を失うて、一男七子が相続いで生れたあとをう・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫