・・・乗客の自分も失笑したが、とにかくこの流行言葉にはどこか若干の「俳諧」がある。 五 盲や聾から考えると普通の人間は二重人格のように思われるかもしれない。性格分裂者のように見えるかもしれない。時によって「眼の人」・・・ 寺田寅彦 「KからQまで」
・・・彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊の中に、確にこの一拙字を認める事のできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき・・・ 夏目漱石 「子規の画」
・・・彼女は良人の仕うちが癪にさわり、憤りたいのだけれども、話されることが可笑しいので、笑うまい笑うまいとしてつい失笑するのであった。 昼餐の時は其でよかった。けれども、もっと皿数の多い、従ってもっと楽しかるべき晩食になると、彼は殆ど精神的な・・・ 宮本百合子 「或る日」
・・・ ベルトンが、激しい彼女の誘惑に打勝とうとして苦しむのが、却って見物を失笑させるのは、一つは、イサベルの魅力が見物の心を誘惑するのに余り遠いからではないか。常識では、まあ何と云う風だろう、と呟きながらも、心が自ら眼を誘うような独特な魅惑・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・意志の不明瞭な林之助を、あきらめ切れないお絹の切な情が満ち溢れてこそ、最後の幕も引立ったのだが、肝心の処で見物を失笑させたのは惜しい。 勿論、宗十郎の林之助も甚だカサカサで、情味もなければ消極的な臆病さも充分出ていず、頻りにスースー息を・・・ 宮本百合子 「気むずかしやの見物」
・・・ 二人は、女将が直ぐは笑いもせず、黒目をよせるような顔をして猶しげしげ自分の掌を見ているので、二重におかしく失笑した。女将は、彼等に身上話をきかせ、その中で、十九年前仲居をしていたとき一人の男を世話され、間もなくその男の児と二人放られて・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・虫はちゃんとそれを心得、必死の勢いで丹念に早業を繰返すのだ――私は終に失笑した。そして、その滑稽で熱烈な虫を団扇にのせ、庭先の蚊帳つり草の央にすててやった。「ずるや! だました気だな!」 きのうきょうは秋口らしい豪雨が降りつづい・・・ 宮本百合子 「この夏」
・・・ 私は失笑しそうになったのを辛うやっと知らん顔をする。 だまって顔を見合わせた二人はそそくさと出て行って庭の中で雨にぬれながら押し出された様な声で笑って居た。 又私の居る処へ来て玄関の土間へ声をかける、「どうにかして、も・・・ 宮本百合子 「通り雨」
・・・ 仲平は覚えず失笑した。そして孫右衛門の無遠慮なような世辞を面白がって、得意の笊棋の相手をさせて帰した。 お佐代さんが国から出た年、仲平は小川町に移り、翌年また牛込見附外の家を買った。値段はわずか十両である。八畳の間に床の間と廻・・・ 森鴎外 「安井夫人」
出典:青空文庫