・・・ 帰りに池の端から電車へ乗ったら、左の奥歯が少し痛み出した。舌をやってみると、ぐらぐら動くやつが一本ある。どうも赤木の雄弁に少し祟られたらしい。 三十日 朝起きたら、歯の痛みが昨夜よりひどくなった。鏡に向って見ると、左の頬が・・・ 芥川竜之介 「田端日記」
・・・も血を吐かせて雪江が見て下されと紐鎖へ打たせた山村の定紋負けてはいぬとお霜が櫛へ蒔絵した日をもう千秋楽と俊雄は幕を切り元木の冬吉へ再び焼けついた腐れ縁燃え盛る噂に雪江お霜は顔見合わせ鼠繻珍の煙草入れを奥歯で噛んで畳の上敷きへ投りつけさては村・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・それでも名所をあるきまわって、はちまん様のまえで、飴を買って食べましたが、私、そのとき右の奥歯の金冠二本をだめにしてしまって、いまでもそのままにして放って置いてあるのですが、時々、しくしくいたみます。 ――ふっと思い出したが、ヴェルレエ・・・ 太宰治 「虚構の春」
・・・「右の奥歯がいたくてなりません。歯痛ほど閉口なものはないね。アスピリンをどっさり呑めば、けろっとなおるのだが。おや、あなたを呼んだのは僕だったのですか? しつれい。僕にはねえ」私の顔をちらと見てから、口角に少し笑いを含めて、「ひとの見さかい・・・ 太宰治 「ダス・ゲマイネ」
・・・越中富山の万金丹でも、熊の胃でも、三光丸でも五光丸でも、ぐっと奥歯に噛みしめて苦いが男、微笑、うたを唄えよ。私の私のスウィートピイちゃん。あら、あたし、いけない女? ほらふきだとさ、・・・ 太宰治 「HUMAN LOST」
・・・光の中で一粒ずつ拾い集めた砂金、竜の鱗、生れて一度も日光に当った事のないどぶ鼠の眼玉、ほととぎすの吐出した水銀、蛍の尻の真珠、鸚鵡の青い舌、永遠に散らぬ芥子の花、梟の耳朶、てんとう虫の爪、きりぎりすの奥歯、海底に咲いた梅の花一輪、その他、と・・・ 太宰治 「ろまん燈籠」
・・・またある精力家努力家で聞えた医者で患者を診察しながら絶えず奥歯を噛み合わせる人がある。昔から「歯噛みをなして」というのは腹を立てた人の形容ということに相場がきまっているくらいである。ともかくものんびりした気持やぽかんとした気持と、この歯噛み・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・しかしそれくらいの事が自慢になるようであったら世の中に易者や探偵という商売は存在しない訳であり、奥歯一本の化石から前世界の人間や動物の全身も描きだすような学者はあり得ない訳である。 色々と六かしい、しかもたいていはエゴイスティックな理窟・・・ 寺田寅彦 「年賀状」
・・・舌のさきを奥歯にやって、それをかみながら一種の音を立てる癖があった事を思い出す。これが父の楊枝をかむ癖と何か関係があったかどうかはわからない。それから何かのおりに、竹の切れはしで、木瓜の木をやたらにたたきながら、同じ言葉を繰り返し繰り返しど・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ 短刀を鞘へ収めて右脇へ引きつけておいて、それから全伽を組んだ。――趙州曰く無と。無とは何だ。糞坊主めとはがみをした。 奥歯を強く咬み締めたので、鼻から熱い息が荒く出る。こめかみが釣って痛い。眼は普通の倍も大きく開けてやった。 ・・・ 夏目漱石 「夢十夜」
出典:青空文庫