・・・事実は、私が妻子たちを養うことができないため、妻の兄の好意で、妻子たちを田舎へ伴れて行ってくれたのだ。しかし私としては、どこまでも妻子たちとは離れたくなかったのだ。私はむりに伴れて行かれる気がした。暴虐――そんな気さえしたのだ。それでも、私・・・ 葛西善蔵 「遁走」
・・・そして自分の無能と不心得から、無惨にも離散になっている妻子供をまとめて、謙遜な気持で継母の畠仕事の手伝いをして働こう。そして最も素朴な真実な芸術を作ろう……」などと、それからそれと楽しい空想に追われて、数日来の激しい疲労にもかかわらず、彼は・・・ 葛西善蔵 「贋物」
・・・幸助を中にして三つの墓並び、冬の夜は霙降ることもあれど、都なる年若き教師は源叔父今もなお一人淋しく磯辺に暮し妻子の事思いて泣きつつありとひとえに哀れがりぬ。 紀州は同じく紀州なり、町のものよりは佐伯附属の品とし視らるること前のごとく、墓・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・母もいらぬ、妹もいらぬ、妻子もいらぬ。慾もなければ得もない。それでいてお露が無暗に可愛のは不思議じゃないか。 何が不思議。可愛いから可愛いので、お露とならば何時でも死ぬる。 十日前のこと、自分は縁先に出て月を眺め、朧ろに霞んで湖水の・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・すべての男性が家庭的で、妻子のことのみかかわって、日曜には家族的のトリップでもするということで満足していたら、人生は何たる平凡、常套であろう。男性は獅子であり、鷹であることを本色とするものだ。たまに飛び出して巣にかえらぬときもあろう。あまり・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、鼠となりし時は猫にくらわれ、或いは妻子に、敵に身を捨て、所領に命を失いし事大地微塵よりも多し。法華経の為には一度も失う事なし。されば日蓮貧道の身と生まれて、父母の孝養心に足らず、国恩を報ずべき力・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・骨董商はちょっと取片付けて澄ましているものだが、それだって何も慈善事業で店を開いている訳ではない、その道に年期を入れて資本を入れて、それで妻子を過しているのだから、三十円のものは口銭や経費に二十円遣って五十円で買うつもりでいれば何の間違はな・・・ 幸田露伴 「骨董」
・・・来世の迷信から、その妻子・眷属にわかれて、ひとり死出の山、三途の川をさすらい行く心ぼそさをおそれるのもある。現世の歓楽・功名・権勢、さては財産をうちすてねばならぬのこり惜しさの妄執にあるのもある。その計画し、もしくは着手した事業を完成せず、・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・事情である、其二三を挙ぐれば、天寿を全うして死ぬのでなく、即ち自然に老衰して死ぬのでなくして、病疾其他の原因から夭折し、当然享くべく味うべき生を、享け得ず味わい得ざるを恐るるのである、来世の迷信から其妻子・眷属に別れて独り死出の山、三途の川・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・機会さえあらば、何処かの温泉地でなりと旦那を見、お新にも逢わせ、どうかして旦那の心をもう一度以前の妻子の方へ引きかへさせたい。その下心でおげんは東京の地を踏んだが、あの伜の家の二階で二人の弟の顔を見比べ、伜夫婦の顔を見比べた時は、おげんは空・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
出典:青空文庫