一 埃 僕の記憶の始まりは数え年の四つの時のことである。と言ってもたいした記憶ではない。ただ広さんという大工が一人、梯子か何かに乗ったまま玄能で天井を叩いている、天井からはぱっぱっと埃が出る――そんな光景を・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・「ええ、どこかの銀行の取りつけ騒ぎを新聞でお読みなすったのが始まりなんですって。」 僕はあの松葉の入れ墨をした気違いの一生を想像しました。それから、――笑われても仕かたはありません、僕の弟の持っている株券のことなどを思い出しました。・・・ 芥川竜之介 「手紙」
・・・お民さんも始まりは私にも隠していたけれど、後には隠して居られなくなったのさ。私もお民さんのためにいくら泣いたか知れない……」 見ればお増はもうぽろぽろ涙をこぼしている。一体お増はごく人のよい親切な女で、僕と民子が目の前で仲好い風をすると・・・ 伊藤左千夫 「野菊の墓」
・・・やがて、いつものごとく授業が始まりました。 休みの時間に、彼は、老先生の前へいって、東京へ出る、決心をしたことを告げると、「君がいってくれたら、山本くんも喜ぶだろう。ただ注意することは、第一に、なにごとも忍耐だ。つぎに、男子というも・・・ 小川未明 「空晴れて」
・・・ いったい丹造がこの写真広告を思いついたのは、肺病薬販売策として患者の礼状を発表している某寺院の巧妙な宣伝手段に狙いをつけたことに始まり、これに百尺竿頭一歩をすすめたのであるが、しかし、どう物色しても、川那子薬で全快したという者が見当ら・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・それからお経が始まり、さらに式場が本堂前に移されて引導を渡され、焼香がすんですぐ裏の墓地まで、私の娘たちは造花など持たされて形ばかしの行列をつくり、そこの先祖の墓石の下に埋められた。お団子だとか大根の刻んだのだとかは妻が用意してきてあった。・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・医師が見える度に問答が始まります。「先生、あなたは暖かくなれば楽になると言われましたが本当ですか。脚が腫れたらもう駄目ではないのでしょうか」「いいえ、そんなことはありません。これから暖くなるのです。今に楽になりますよ、成る丈け安静に・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・そしてもともと話のあったこととて、既に東京へ来ていた五人と共に、再び東京に於ての会合が始まりました。そして来年の一月から同人雑誌を出すこと、その費用と原稿を月々貯めてゆくことに相談が定ったのです。私がAの家へ行ったのはその積立金を持ってゆく・・・ 梶井基次郎 「橡の花」
・・・が始まりましたが、鷹見はもとの快活な調子で、「時に樋口という男はどうしたろう」と話が鸚鵡の一件になりました。「どうなるものかね、いなかにくすぼっているか、それとも死んだかも知れない、長生きをしそうもない男であった。」と法律の上田は、・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・きまった始まりで、御詠歌のように云って歩く「バカ」のいたのを。ところが上田のお母アは、午後の三時になると、きまって特高室に出掛けて行って、キャンキャンした大声でケイサツを馬鹿呼ばりし、自分の息子を賞め、こんなことになったのは他人にだまされた・・・ 小林多喜二 「母たち」
出典:青空文庫