・・・我々と彼等との差は、存外大きなものではない。――江戸の町人に与えた妙な影響を、前に快からず思った内蔵助は、それとは稍ちがった意味で、今度は背盟の徒が蒙った影響を、伝右衛門によって代表された、天下の公論の中に看取した。彼が苦い顔をしたのも、決・・・ 芥川竜之介 「或日の大石内蔵助」
・・・しかし僕のマツチの火は存外強い風のために容易に巻煙草に移らなかった。「おうい。」 Mはいつ引っ返したのか、向うの浅瀬に佇んだまま、何か僕に声をかけていた。けれども生憎その声も絶え間のない浪の音のためにはっきり僕の耳へはいらなかった。・・・ 芥川竜之介 「海のほとり」
・・・これは何でもない事のようだが、存外今の批評家に欠乏している強味なのだ。 最後に創作家としての江口は、大体として人間的興味を中心とした、心理よりも寧ろ事件を描く傾向があるようだ。「馬丁」や「赤い矢帆」には、この傾向が最も著しく現れていると・・・ 芥川竜之介 「江口渙氏の事」
・・・ 監督を先頭に、父から彼、彼から小作人たちが一列になって、鉄道線路を黙りながら歩いてゆくのだったが、横幅のかった丈けの低い父の歩みが存外しっかりしているのを、彼は珍しいもののように後から眺めた。 物の枯れてゆく香いが空気の底に澱んで・・・ 有島武郎 「親子」
・・・ところがこの論理の不徹底な、矛盾に満ちた、そして椏者の言葉のように、言うべきものを言い残したり、言うべからざるものを言い加えたりした一文が、存外に人々の注意を牽いて、いろいろの批評や駁撃に遇うことになった。その僕の感想文というのは、階級意識・・・ 有島武郎 「片信」
・・・正面より見れば生れ立ての馬の子ほどに見ゆ、後から見れば存外小さしと云えり。お犬のうなる声ほど物凄く恐しきものなし。 実にこそ恐しきはお犬の経立ちなるかな。われら、経立なる言葉の何の意なるやを解せずといえども、その音の響、言知らず、も・・・ 泉鏡花 「遠野の奇聞」
・・・主人はどういう風になるだろうと心配していた様子、吉弥は存外平気でいる。お貞はまず口を切った。「先生、とんだことになりまして、なア」と、あくまで事情を知らないふりで、「あなたさまに御心配かけては済みませんけれど――」「なアに、こうなっ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・は『雨蛙それ故、この皮肉を売物にしている男がドンナ手紙をくれたかと思って、急いで開封して見ると存外改たまった妙に取済ました文句で一向無味らなかった。が、その末にこの頃は談林発句とやらが流行するから自分も一つ作って見たといって、「月落烏啼霜満・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・空想はかなり大きく、談論は極めて鋭どかったが、率ざ問題にブツかろうとするとカラキシ舞台度胸がなくて、存外※咀思想がイツマデも抜け切らないで、二葉亭の行くべき新らしい世界に眼を閉ざさした。二葉亭は近代思想の聡明な理解者であったが、心の底から近・・・ 内田魯庵 「二葉亭追録」
・・・人は、たくさんあっても、信用のおける人というものは、存外少ないものだ。」と、いって、主人は賢一をはげましてくれました。賢一は、ただ、その厚情に感謝しました。彼は負傷したことを故郷の親にも、老先生にも知らさなかったのです。孝経の中に身体髪膚受・・・ 小川未明 「空晴れて」
出典:青空文庫