・・・同じ店に雇われていたものの中で、初め夜烏子について俳句のつくり方を学び、数年にして忽門戸を張り、俳句雑誌を刊行するようになった人があったが、夜烏子はこれを見て唯一笑するばかりで、その人から句を請われる時は快くこれを与えながら、更に報酬を受け・・・ 永井荷風 「深川の散歩」
・・・ば今の女子を教うるに純然たる昔の御殿風を以てす可らざるは言うまでもなきことなれども、幼少の時より国字の手習、文章手紙の稽古は勿論、其外一切の教育法を文明日進の方針に仕向けて、物理、地理、歴史等の大概を学び、又家の事情の許す限りは外国の語学を・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・学者はなおもこの政府に直接して衝くが如く刺すが如く、かの小姑を学びて家嫂を煩わさんと欲するか。智者の所業にははなはだもって不似合なり。いわゆる智者にして愚を働くものというべし。 ひっきょう、この水掛論は、元素の異同より生じたるものに非ず・・・ 福沢諭吉 「学者安心論」
・・・つまり西洋文を輸入しようという考えからで、先ずドストエフスキー、ガンチャロフ等を学び、主にドストエフスキーの書方に傾いた。それから下巻になると、矢張り多少はそれ等の人々の影響もあるが、一番多く真似たのはガンチャロフの文章であった。 さて・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・彼が『古今』、『新古今』を学ばずして『万葉』を学びたる卓見はわが第一に賞揚せんとするところなり。彼が『万葉』を学んで比較的善くこれを模し得たる伎倆はわが第二に賞揚せんとするところなり。そもそも歌の腐敗は『古今集』に始まり足利時代に至ってその・・・ 正岡子規 「曙覧の歌」
・・・しかも蕪村以後においてすらこれを学びし者を見ず。 芭蕉の句は人事を詠みたるもの多かれど、皆自己の境涯を写したるに止まり鞍壺に小坊主のるや大根引のごとく自己以外にありて半ば人事美を加えたるすらきわめて少し。 蕪村の句は・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・私たちは改めてこのことについて学びたいと思っている。 こうして、各面で婦人の参加が積極的な、重大な意味をもって来るとき、日本の民法が主婦を、無能者ときめていることは、何たる愚かな滑稽であろう。その無能力者を、刑法では、そう認めず、処罰に・・・ 宮本百合子 「合図の旗」
・・・ 私たちは正しい希望と発案とを集め、それを組織することを学びましょう。組織してそれを着々と実現してゆく力量を、私たちの身についたものとしてゆきたいと思います。どう現実のものとしてゆくかということは、私たちの熱意と実行力にかかっております・・・ 宮本百合子 「明日を創る」
・・・玄機が詩を学びたいと言い出した時、両親が快く諾して、隣街の窮措大を家に招いて、平仄や押韻の法を教えさせたのは、他日この子を揺金樹にしようと云う願があったからである。 大中十一年の春であった。魚家の妓数人が度々ある旗亭から呼ばれた。客は宰・・・ 森鴎外 「魚玄機」
・・・これから小倉にいて、私にドイツ語を学びたいと云うのである。 これを聞いて私はF君の自信の大きいのに驚き、又私の買い被られていることの甚しいのに驚いて、暫く君の顔を見て黙っていた。後に思えば気の毒であるが、この時は私の心中に、若し狂人では・・・ 森鴎外 「二人の友」
出典:青空文庫