・・・子を作り、財を貯え、安逸なる一町民となるも、また人生の理想であると見られぬことはない。普通な人間の親父なる彼が境涯を哀れに思うなどは、出過ぎた料簡じゃあるまいか。まずまず寝ることだと、予は雨戸を閉めようとして、外の空気の爽かさを感じ、又暫く・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・ 共産制度の世界に到達して、生産の豊富から、物資の潤沢をのみ夢むような輩は、尚お、心にブルジョアの、安逸と怠惰の念が抜けきらないからです。私達、真の無産者は、喜びを共にし、苦しみを共にし、永久に、平和な、そして自由な、青空の下に相抱いて・・・ 小川未明 「民衆芸術の精神」
・・・そして雲はなにかそうした安逸の非運を悲しんでいるかのように思われるのだった。 私は眼を溪の方の眺めへ移した。私の眼の下ではこの半島の中心の山彙からわけ出て来た二つの溪が落合っていた。二つの溪の間へ楔子のように立っている山と、前方を屏風の・・・ 梶井基次郎 「蒼穹」
・・・そしていつかそれに気がついてみると、栄養や安静が彼に浸潤した、美食に対する嗜好や安逸や怯懦は、彼から生きていこうとする意志をだんだんに持ち去っていた。しかし彼は幾度も心を取り直して生活に向かっていった。が、彼の思索や行為はいつの間にか佯りの・・・ 梶井基次郎 「冬の日」
・・・ それが独りよがりの傲慢になってしまうか、中途半端な安逸に満足してしまうかである。 処女は処女としての憧憬と悩みのままに、妻や、母は家庭や、育児の務めや、煩いの中に、職業婦人は生活の分裂と塵労とのうちに、生活を噛みしめ、耐え忍びより・・・ 倉田百三 「女性の諸問題」
・・・愚図々々と都会生活の安逸にひたっていたのが失敗の基である、その点やはりあなたがたにも罪はある、それにまた、罹災した人たちはよく、焼け出されの丸はだかだの、着のみ着のままだのと言うけれども、あれはまことに聞きぐるしい。同情の押売りのようにさえ・・・ 太宰治 「やんぬる哉」
・・・都会の安逸な有閑者の生活に生じてくる恋愛中心の波瀾、それをめぐっての有閑者流な人情の葛藤の面白さにすぎない。勤労大衆の文学は、その内容も表現も勤労者の生活に即したものでなければならないという理解に立っていたのであった。 純文学はこの時代・・・ 宮本百合子 「今日の文学に求められているヒューマニズム」
・・・無気力な安逸を絶対にきらう「狭き門」のアリサの熱情はその不安と定着との拒絶と自ら帰結を知らない点でも、実にジイド自身のものであると云える。「神がいないのだったら何をしたってかまわない」そういう神の否定ではない。自分の、各個人の本性から尽きず・・・ 宮本百合子 「ジイドとそのソヴェト旅行記」
・・・彼は一組の男女が人類的な奉仕のためにどんな努力をしようともしないで、一つの巣の中にからまりあって、安逸と些末な家事的習慣と慢性的な性生活をダラダラと送っている状態を堕落としておそれ憎んだ。そして本当の真面目な結婚生活というものがあり得るなら・・・ 宮本百合子 「人間の結婚」
・・・の幸福と安逸とのために自分のすべてを消耗しているものにとっては実に明らかな事実について、むずかしい言葉でこんな大きい本を書く必要はなかったという風に、ゴーリキイには考えられた。スミスが提出する経済学の命題は、生活から直接獲得されたものとして・・・ 宮本百合子 「マクシム・ゴーリキイの伝記」
出典:青空文庫