・・・ 近くに倉庫の多いせいか、実によく荷馬車が通る。たいていは馬の肢が折れるかと思うくらい、重い荷を積んでいるのだが、傾斜があるゆえ、馬にはこの橋が鬼門なのだ。鞭でたたかれながら弾みをつけて渡り切ろうとしても、中程に来ると、轍が空まわりする・・・ 織田作之助 「馬地獄」
・・・「……実に変な奴だねえ、そうじゃ無い?」 よう/\三百の帰った後で、彼は傍で聴いていた長男と顔を見交わして苦笑しながら云った。「……そう、変な奴」 子供も同じように悲しそうな苦笑を浮べて云った。…… 狭い庭の隣りが墓・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ 医者は直ぐ駆けつけて呉れましたが、最早実に落着いたものです。「ひどう苦しみましたか……たいした苦しみがなければ、先ず結構な方です」といった具合で、私がもうこれでお仕舞いですかと訊ねますと、まだ一日位は保つだろうと言うのでした。然し、医・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・ 彼の視野のなかで消散したり凝聚したりしていた風景は、ある瞬間それが実に親しい風景だったかのように、またある瞬間は全く未知の風景のように見えはじめる。そしてある瞬間が過ぎた。――喬にはもう、どこまでが彼の想念であり、どこからが深夜の町で・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・これからは私アもう、父様のおっしゃったことを真実にしないからようござんす。一体父様は私をそんなに可愛がって下さらないわ。それだからこの間家にいた時も、私を出し抜いてお芝居へいらしったんだわ。私は大変に恨むからいい。 はて恐いな。お前に恨・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・り』と申せば皆様すぐと小生の事に思し召され候わば大違いに候、妻のことに候、あの言葉少なき女が貞夫でき候て以来急に口数多く相成り近来はますますはげしく候、そしてそのおしゃべりの対手が貞夫というに至っては実に滑稽にござ候、先夜も次の間にて貞夫を・・・ 国木田独歩 「初孫」
・・・しかしすぐれた倫理学を熟読するならば、いかに著者の人間が誠実に、熱烈に、条理をつくして、その全容を表現しているかを見出して、敬慕の念を抱かずにはいられないであろう。それは文芸の傑作に触れた感動にも劣るものではない。そしてその感染性とわれわれ・・・ 倉田百三 「学生と教養」
・・・それは、広い、はてしのない雪の曠野で、実に、二三匹の蟻にも比すべき微々たるものであった。「どっちへでもいい、ええかげんで連れてって呉れよ。」二人はやけになった。「あんまり追いたてるから、なお分らなくなっちまったんだ。」 スメター・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・私塾と云えばいずれ規模の大きいのは無いのですが、それらの塾は実に小規模のもので、学舎というよりむしろただの家といった方が適当な位のものでして、先生は一人、先生を輔佐して塾中の雑事を整理して諸種の便宜を生徒等に受けさせる塾監みたような世話焼が・・・ 幸田露伴 「学生時代」
・・・ いな、人間の死は、科学の理論を待つまでもなく、実に平凡なる事実、時々刻々の眼前の事実、なんびともあらそうべからざる事実ではないか。死のきたるのは、一個の例外もゆるさない。死に面しては、貴賎・貧富も、善悪・邪正も、知恵・賢不肖も、平等一・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
出典:青空文庫