・・・ 軽井沢から沓掛へ乗った一人の労働者が、ひどく泥酔して足元があぶないのに、客車の入り口の所に立ってわめいている。満州国がどうして日本帝国がどうかしたといったような事を言って相手を捜している。客車の中から一人洋服を着た若い学校の先生らしい・・・ 寺田寅彦 「軽井沢」
・・・三等が満員になったので団員の一部は二等客車へどやどや雪崩れ込んだ。この直接行動のおかげで非常時気分がはじめて少しばかり感ぜられた。こうした場合の群集心理の色々の相が観察されて面白かった。例えば大勢の中にきっと一人くらいは「豪傑」がいて、わざ・・・ 寺田寅彦 「静岡地震被害見学記」
・・・あの物静かな唱歌はもう聞かれなくなって、にぎやかなむしろ騒々しい談笑が客車の中に沸き上がった。小さなバスケットや信玄袋の中から取り出した残りものの塩せんべいやサンドウイッチを片付けていた生徒たちの一人が、そういうものの包み紙を細かく引き裂い・・・ 寺田寅彦 「写生紀行」
・・・ 停車場へ着いてポンペイ行きに乗る。客車の横腹に Fumatori と大きく書いてあるのを、行く先の駅名かと思ったら、それは喫煙車という事であった。客車の中は存外不潔であった。汽車は江に沿うてヴェスヴィオのふもとを走って行った、ふもとか・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・ワシントンからマウント・ウェザーの気象台へ見学に出かけた田舎廻りのがたがた汽車はアメリカとは思われない旧式の煤けた小さな客車であったが、その客車が二つの仕切りに区分されていて、広い方の入口には「ホワイト」、狭い方には「カラード」という表札が・・・ 寺田寅彦 「チューインガム」
・・・ようやくにして新橋行のに乗り込む。客車狭くして腰掛のうす汚きも我慢して座を占むれば窓外のもの動き出して新聞売の声後になる。右には未だ青き稲田を距てて白砂青松の中に白堊の高楼蜑の塩屋に交じり、その上に一抹の海青く汽船の往復する見ゆ。左に従い来・・・ 寺田寅彦 「東上記」
・・・フニクラレの客車で日本人らしい人に出会って名乗り合ったら、それは地質学者のK氏であった。このケーブル線路の上の方の部分は近頃の噴火に破壊されていたので徒歩の外に途はなかった。風があまりに強いために他の乗客は皆登山を断念して引返したので結局こ・・・ 寺田寅彦 「二つの正月」
・・・ゲハイムラート以下皆往復共に四等客車に収まって行った。客車の中は白塗りのがらんどうで、ただ片側の壁に幅の狭い棚のような腰掛があるだけである。乗合わせた農夫農婦などは銘々の大きな荷物に腰かけているからいいが、手ぶらの教授方以下いずれも立ったま・・・ 寺田寅彦 「ベルリン大学(1909-1910)」
・・・ ところが客車の窓がみんなまっくらでした。するとじいさんがいきなり、「おや、電燈が消えてるな。こいつはしまった。けしからん。」と云いながらまるで兎のようにせ中をまんまるにして走っている列車の下へもぐり込みました。「あぶない。」と・・・ 宮沢賢治 「月夜のでんしんばしら」
・・・黒いアルパカの外套を着て、古びて形のくずれた丸い柔い旅行帽をかぶったマリアは、単身その重い箱を持って満員の列車に乗りこんだ。客車の中は敗戦の悲観論にみち溢れている。鉄道沿線の国道には、西へ西へと避難してゆく自動車の列がどこまでも続いている。・・・ 宮本百合子 「キュリー夫人」
出典:青空文庫