・・・ 八年後、いまは姉にお金をねだることも出来ず、故郷との音信も不通となり、貧しい痩せた一人の作家でしかない私は、先日、やっと少しまとまった金が出来て、家内と、家内の母と、妹を連れて伊豆の方へ一泊旅行に出かけました。清水で降りて、三保へ行き・・・ 太宰治 「老ハイデルベルヒ」
・・・自分の子供の時分に屋内の井戸の暗い水底に薬鑵が沈んだのを二枚の鏡を使って日光を井底に送り、易々と引上げに成功したこともあった。 日本橋橋畔のへリオトロープは単なる子供のいたずらであったであろうが、同じようなのでただの悪戯ではない場合があ・・・ 寺田寅彦 「異質触媒作用」
・・・二 妾宅は上り框の二畳を入れて僅か四間ほどしかない古びた借家であるが、拭込んだ表の格子戸と家内の障子と唐紙とは、今の職人の請負仕事を嫌い、先頃まだ吉原の焼けない時分、廃業する芸者家の古建具をそのまま買い取ったものである。二階・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・すると坊主が今本郷から小石川の方へ向いて動くのははなはだよくない、きっと家内に不幸があると云ったんだがね。――余計な事じゃないか、何も坊主の癖にそんな知った風な妄言を吐かんでもの事だあね」「しかしそれが商売だからしようがない」「商売・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・養家に行きて気随気儘に身を持崩し妻に疏まれ、又は由なき事に舅を恨み譏りて家内に風波を起し、終に離縁されても其身の恥辱とするに足らざるか。ソンナ不理窟はなかる可し。女子の身に恥ず可きことは男子に於ても亦恥ず可き所のものなり。故に父母の子を教訓・・・ 福沢諭吉 「女大学評論」
・・・それがためにこの二、三日は余の苦しみと、家内の騒ぎと、友人の看護旁訪い来るなどで、病室には一種不穏の徴を示して居る。昨夜も大勢来て居った友人(碧梧桐、鼠骨、左千夫、秀真、節は帰ってしもうて余らの眠りに就たのは一時頃であったが、今朝起きて見る・・・ 正岡子規 「九月十四日の朝」
・・・何せ小十郎のとこでは山には栗があったしうしろのまるで少しの畑からは稗がとれるのではあったが米などは少しもできず味噌もなかったから九十になるとしよりと子供ばかりの七人家内にもって行く米はごくわずかずつでも要ったのだ。 里の方のものなら麻も・・・ 宮沢賢治 「なめとこ山の熊」
・・・ 昔の日本では大抵田舎のお婆さんが綿を紡いで自分で染めて織って家内の必要はみたしていた。ところが紡績が発達して一反五十銭、八十銭で買えるような時代になると、農家の人々は、どうしてもそういう反物を買うようになった。貧乏のために娘を吉原に売・・・ 宮本百合子 「衣服と婦人の生活」
・・・日がもう暮れかかったので、薄暗い屋内を見廻すに、がらんとして何一つない。道翹は身をかがめて石畳の上の虎の足跡を指さした。たまたま山風が窓の外を吹いて通って、うずたかい庭の落ち葉を捲き上げた。その音が寂寞を破ってざわざわと鳴ると、閭は髪の毛の・・・ 森鴎外 「寒山拾得」
・・・「僕の家内は、この煙りのために、殺されるんです。焚かないですませるものなら、やめてくれ給え。」 彼は若者の答えを待たずに、裏山から漁場の方へ降りていった。扁平な漁場では、銅色の壮烈な太股が、林のように並んでいた。彼らは折からの鰹が着・・・ 横光利一 「花園の思想」
出典:青空文庫