・・・いつか使に来た何如璋と云う支那人は、横浜の宿屋へ泊って日本人の夜着を見た時に、「是古の寝衣なるもの、此邦に夏周の遺制あるなり。」とか何とか、感心したと云うじゃないか。だから何も旧弊だからって、一概には莫迦に出来ない。』その中に上げ汐の川面が・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・が、すぐまた気にも止めないように、軽快な口笛を鳴らしながら、停車場前の宿屋の方へ、太い籐の杖を引きずって行った。 鎌倉。 一時間の後陳彩は、彼等夫婦の寝室の戸へ、盗賊のように耳を当てながら、じっと容子を窺っている彼自身を発見した・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・初めての宿屋じゃ此方の誰だかをちっとも知らない。知った者の一人もいない家の、行燈か何かついた奥まった室に、やわらかな夜具の中に緩くり身体を延ばして安らかな眠りを待ってる気持はどうだね。B それあ可いさ。君もなかなか話せる。A 可いだ・・・ 石川啄木 「一利己主義者と友人との対話」
・・・さればお紺の婀娜も見ず、弥次郎兵衛が洒落もなき、初詣の思い出草。宿屋の硯を仮寝の床に、路の記の端に書き入れて、一寸御見に入れたりしを、正綴にした今度の新版、さあさあかわりました双六と、だませば小児衆も合点せず。伊勢は七度よいところ、いざ御案・・・ 泉鏡花 「伊勢之巻」
・・・富士のふもと野の霜枯れをたずねてきて、さびしい宿屋に天平式美人を見る、おおいにゆかいであった。 娘は、お中食のしたくいたしましょうかといったきり、あまり口数をきかない、予は食事してからちょっと鵜島へゆくから、舟をたのんでくれと命じた。・・・ 伊藤左千夫 「河口湖」
・・・岡村はそういって、宿屋の帳附けが旅客の姓名を宿帳へ記入し、跡でお愛想に少許り世間話をして立去るような調子に去って終った。 予は彼が後姿を見送って、彼が人間としての変化を今更の如くに気づいた。若い時代の情熱などいうもの今の彼には全く無いの・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・少し込み入った脚本を書きたいので、やかましい宿屋などを避けたのである。隣りが料理屋で芸者も一人かかえてあるので、時々客などがあがっている時は、随分そうぞうしかった。しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないから、かえって面白いところだと・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ 朝早く馬が、向いの宿屋の前に繋がれた。其のうちに三十四五の病身らしい女がはんてんを着て敷蒲団を二枚馬の脊に重ねて、其の上に座った。頭には、菅笠を被って前に風呂敷包を乗せている。草津行の女であるということが分った。 三階にいて私は、・・・ 小川未明 「渋温泉の秋」
・・・私は、松並木のある、長い通りを往ったり、来たりして、何の宿屋に泊ろうかと思った。ちょうど、一軒の一品料理店の前に、赤い旗が下っていた。其の店頭に立っていた女に、『舞子の町は、何の辺ですか』と聞いた。女は淋しそうな顔をしていた。『町っ・・・ 小川未明 「舞子より須磨へ」
・・・「泊めてもらうって――宿屋かね。」と車夫は提灯の火影に私の風体を見て、「木賃ならついそこにあるが……私が今曲ってきたあの横町をね、曲ってちょっと行くと、山本屋てえのと三州屋てえのと二軒あるよ。こっちから行くと先のが山本屋で、山本屋の方が・・・ 小栗風葉 「世間師」
出典:青空文庫