・・・ 尾籠な話であるが室戸の宿の宿泊料が十一銭であったことを覚えている。大変に御馳走があって二の膳付の豊富な晩食を食わされたのでいささか嚢中の懸念があったではないかと思う。そのせいではっきりそれを覚えているのかもしれない。道中の昼食は一人前・・・ 寺田寅彦 「初旅」
・・・異郷から来た旅人が宿泊した時に、その人が風采も立派で勇気があって優れた人物だと思うと、夜中に不意を襲って暗殺してしまう。暗殺の目的は金や持物ではなくて、その旅人の有っている技能や智慧や勇気が魂魄と一緒に永久にその家に止まって、そのおかげでそ・・・ 寺田寅彦 「マルコポロから」
・・・然しこの書は明治十年西南戦争の平定した後凱旋の兵士が除隊の命を待つ間一時谷中辺の寺院に宿泊していた事を記述し、それより根津駒込あたりの街の状況を説くこと頗精細である。是亦明治風俗史の一資料たることを失わない。殊に根津遊廓のことに関しては当時・・・ 永井荷風 「上野」
・・・ 然るに当夜観客の邦人中には市中の旅館に宿泊して居る人ででもあるのか、平袖の貸浴衣に羽織も着ず裾をまくり上げて団扇で脛をあおいでいる者もあり、又西洋人の中には植民地に於てのみ見受けられる雑種児にして、其風采容貌の欧洲本土に在っては決して・・・ 永井荷風 「帝国劇場のオペラ」
・・・、地理地形を書くことを目的としたものや、風俗習慣を書くことを目的としたものや、あるいはその地の政治経済教育の有様より物産に至るまで細かに記する事を目的としたもの、あるいは個人的に旅行の里程、車馬の賃、宿泊料などの事を一々に記したもの、あるい・・・ 正岡子規 「徒歩旅行を読む」
・・・ もとから市の無料宿泊所や本願寺のお粥の接待に列の出来ていたことは周知の事実でもある。砂糖が切符になる前に砂糖やの前に出来ていた列、この頃は食事時間に丸の内辺の食堂のぐるりにも出来る列。列は整頓の形でありながら、常にその奥に何か足りない・・・ 宮本百合子 「列のこころ」
・・・また未だかつて妓楼に宿泊したことがなかった。 為永春水はまだ三鷺と云い、楚満人と云った時代から竜池と相識になってこの遊の供をした。竜池が人情本中に名を留むるに至ったのは此に本づいている。 竜池は我名の此の如くに伝播せらるるを忌まなか・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・「小石川区小日向台町何丁目何番地に新築落成して横浜市より引き移りし株式業深淵某氏宅にては、二月十七日の晩に新宅祝として、友人を招き、宴会を催し、深更に及びし為め、一二名宿泊することとなりたるに、其一名にて主人の親友なる、芝区南佐久間町何・・・ 森鴎外 「鼠坂」
出典:青空文庫