・・・というのは漆山文子のいる畳屋町は笠屋町から心斎橋筋へ一つ西寄りの通りだから、私はすぐにでも文子に会える、とたのしみにしていたからです。私は文子に逢えずに瀬戸物町へ帰りました。しかし、よしんばその時家が笠屋町にあったにせよ、自分の丁稚姿をふり・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・秀才の寄り集りだという怖れで眼をキョロキョロさせ、競争意識をとがらしていたが、間もなくどいつもこいつも低脳だとわかった。中学校と変らぬどころか、安っぽい感激の売出しだ。高等学校へはいっただけでもう何か偉い人間だと思いこんでいるらしいのがばか・・・ 織田作之助 「雨」
・・・そしてただその娘の母親であるさっきのお婆さんだけがその娘の世話をしていて、娘は二階の一と間に寝たきり、その親爺さんも息子もそしてまだ来て間のないその息子の嫁も誰もその病人には寄りつかないようにしているということを言っていた。そして吉田はある・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
・・・ずかずかと歩み寄りて何者ぞと声かけ、燈をかかげてこなたの顔を照らしぬ。丸き目、深き皺、太き鼻、逞ましき舟子なり。「源叔父ならずや」、巡査は呆れし様なり。「さなり」、嗄れし声にて答う。「夜更けて何者をか捜す」「紀州を見たまわざ・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・さても可愛いこの娘、この大河なる団栗眼の猿のような顔をしている男にも何処か異なところが有るかして、朝夕慕い寄り、乙女心の限りを尽して親切にしてくれる不憫さ。 自然生の三吉が文句じゃないが、今となりては、外に望は何もない、光栄ある歴史もな・・・ 国木田独歩 「酒中日記」
・・・菅沼というにかかる頃、暑さ堪えがたければ、鍛冶する片手わざに菓子などならべて売れる家あるを見て立寄りて憩う。湯をと乞うに、主人の妻、少時待ちたまえ、今沸かしてまいらすべしとて真黒なる鉄瓶に水を汲み入るれば、心長き事かなと呆れて打まもるに、そ・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・何か言いたいような風であったが、談話の緒を得ないというのらしい、ただ温和な親しみ寄りたいというが如き微笑を幽に湛えて予と相見た。と同時に予は少年の竿先に魚の来ったのを認めた。 ソレ、お前の竿に何か来たよ。 警告すると、少年は慌てて向・・・ 幸田露伴 「蘆声」
・・・「兄さん、お寄り……よ」そう言いながら、彼の顔を見て、「この前の……また、ひやかし?」と言った。「上るんだよ」ちょっと声がかすれた。「本当?」と女はきいた。 五 廊下の板が一枚一枚しのり返っていて、歩くと・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・三 ほんの三十分、いいえ、もっと早いくらい、おや、と思ったくらいに早く、ご亭主がひとりで帰って来まして、私の傍に寄り、「奥さん、ありがとうございました。お金はかえして戴きました」「そう。よかったわね。全部?」 ご・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・それを知っていながら、嘉七は、わざとかず枝にぴったり寄り添うて人ごみの中を歩いた。自身こんなに平気で歩いていても、やはり、人から見ると、どこか異様な影があるのだ。嘉七は、かなしいと思った。三越では、それからかず枝は、特売場で白足袋を一足買い・・・ 太宰治 「姥捨」
出典:青空文庫