去年の春の夜、――と云ってもまだ風の寒い、月の冴えた夜の九時ごろ、保吉は三人の友だちと、魚河岸の往来を歩いていた。三人の友だちとは、俳人の露柴、洋画家の風中、蒔画師の如丹、――三人とも本名は明さないが、その道では知られた腕・・・ 芥川竜之介 「魚河岸」
・・・私の足がどんな所に立っているのだか、寒いのだか、暑いのだか、すこしも私には分りません。手足があるのだかないのだかそれも分りませんでした。 抜手を切って行く若者の頭も段々小さくなりまして、妹との距たりが見る見る近よって行きました。若者の身・・・ 有島武郎 「溺れかけた兄妹」
ずっと早く、まだ外が薄明るくもならないうちに、内じゅうが起きて明りを附けた。窓の外は、まだ青い夜の霧が立ち籠めている。その霧に、そろそろ近くなって来る朝の灰色の光が雑って来る。寒い。体じゅうが微かに顫える。目がいらいらする。無理に早く・・・ 著:アルチバシェッフミハイル・ペトローヴィチ 訳:森鴎外 「罪人」
・・・ ○ 釧路は寒い処であった。しかり、ただ寒い処であった。時は一月末、雪と氷に埋もれて、川さえおおかた姿を隠した北海道を西から東に横断して、着てみると、華氏零下二十―三十度という空気も凍たような朝が毎日続いた。氷った天、氷った・・・ 石川啄木 「弓町より」
・・・――もう春だがなあ、夜はまだ寒い。」 と、納戸で被布を着て、朱の長煙管を片手に、「新坊、――あんな処に、一人で何をしていた?……小母さんが易を立てて見てあげよう。二階へおいで。」 月、星を左右の幕に、祭壇を背にして、詩経、史記、・・・ 泉鏡花 「絵本の春」
・・・「おオ寒い、手がつめたい」 と言って二本のまっ白い手を湯の中へ入れる。省作はおとよさんの手にさわってはたいへんとも何とも思わないけれど、何となく恐ろしくからだを後ろへ引いた。「省作さん、流しましょうか」「ええ」「省作さん・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・「私は、からだが、そう強いほうではないし、それに故郷は寒いんですから、帰りたくはないけれど、どうしても帰るようになるかもしれないのよ。」 ある日、先生は、こんなことをおっしゃいました。そのとき、年子は、どんなに驚いたでしょう。それよ・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・ところが、そのうどん屋では酒も出すので、寒い夜道を疲れて帰った時などつい飲みたくなる。もともといける口だし、借も利くので、つい飲みすごしてしまう。私はもうたいした野心もなく、大金持になろうなどと思ってはいなかったというものの、勘当されている・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ たまらないような気持から、自分としてはめったにないことなんだが、寒い風の外に出て、三丁目附近のレストランに出かけて行った。十時を過ぎていた。自分も鎌倉から出てきて一年余りの下宿生活の間に、三四度も来たことのある階下の広い部屋だったが、・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
一 吉田は肺が悪い。寒になって少し寒い日が来たと思ったら、すぐその翌日から高い熱を出してひどい咳になってしまった。胸の臓器を全部押し上げて出してしまおうとしているかのような咳をする。四五日経つともうすっかり・・・ 梶井基次郎 「のんきな患者」
出典:青空文庫