・・・ と苦しそうに小声で言い、すぐにそのまま式台に寝ころび、私が寝床に引返した時には、もう高い鼾が聞えていました。 そうして、その翌る日のあけがた、私は、あっけなくその男の手にいれられました。 その日も私は、うわべは、やはり同じ様に・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・むつかしやの苦虫の公爵が寝床の中でこの歌を始める。これがヴァレンティーヌ夫人、ド・ヴァレーズ伯爵、ド・サヴィニャク伯爵へと伝播する。最後の伯爵のガス排出の音からふざけ半分のホルンの一声が呼び出され、このラッパが鹿狩りのラッパに転換して爽快な・・・ 寺田寅彦 「音楽的映画としての「ラヴ・ミ・トゥナイト」」
・・・お絹も寝床にいて、寝たふりで聞いていた。 道太は裏の家に大散財があったので、昨夜は夜中に寝床を下へもってきてもらって、姉妹たちの隣りの部屋に蚊帳を釣っていた。冷え冷えした風が流れていた。お絹はお芳に手伝わせて、しまってあった障子を持ちだ・・・ 徳田秋声 「挿話」
一 善ニョムさんは、息子達夫婦が、肥料を馬の背につけて野良へ出ていってしまう間、尻骨の痛い寝床の中で、眼を瞑って我慢していた。「じゃとっさん、夕方になったら馬ハミだけこさいといてくんなさろ、無理しておきたら・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・長火鉢の傍にしょんぼりと坐って汚れた壁の上にその影を映させつつ、物静に男の着物を縫っている時、あるいはまた夜の寝床に先ず男を寝かした後、その身は静に男の羽織着物を畳んで角帯をその上に載せ、枕頭の煙草盆の火をしらべ、行燈の燈心を少しく引込め、・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 自分の室はもと特等として二間つづきに作られたのを病院の都合で一つずつに分けたものだから、火鉢などの置いてある副室の方は、普通の壁が隣の境になっているが、寝床の敷いてある六畳の方になると、東側に六尺の袋戸棚があって、その傍が芭蕉布の襖で・・・ 夏目漱石 「変な音」
・・・私は並べて敷かれている自分の寝床の方から稲子さんのお乳をしぼっているところまで出かけてゆき、プロレタリア作家としての女の生活を様々の強い、新鮮な感情をもって考えながら、やっぱり一種心配気な顔つきで稲子さんのお乳をしぼる様子を謹んでわきから眺・・・ 宮本百合子 「窪川稲子のこと」
・・・兎に角拳銃が寝床に置いてあったのを、持って来れば好かったと思ったが、好奇心がそれを取りに帰る程の余裕を与えないし、それを取りに帰ったら、一しょにいる人が目を醒ますだろうと思って諦念めたそうだ。磚は造做もなく除けてしまった。窓へ手を掛けて押す・・・ 森鴎外 「鼠坂」
・・・そして、彼は自分の寝床へ帰って来ると憂鬱に蝋燭の火を吹き消した。 四 彼は自分の疲れを慰めるために、彼の眼に触れる空間の存在物を尽く美しく見ようと努力し始めた。それは彼の感情のなくなった虚無の空間へ打ち建てらるべ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・アガアテはいつでもわたくしの所へ参ると、にっこり笑って、尼の被物に極まっている、白い帽子を着ていまして、わたくしの寝床に腰を掛けるのでございます。わたくしが妹の手を取って遣りますと、その手に障る心持は、丁度薔薇の花の弁に障るようでございます・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
出典:青空文庫