・・・美代が宿入りの夜など、木枯らしの音にまじる隣室のさびしい寝息を聞きながら机の前にすわって、ランプを見つめたまま、長い息をすることもあった。妻は医者の間に合いの気休めをすっかり信じて、全く一時的な気管の出血であったと思っていたらしい。そうでな・・・ 寺田寅彦 「どんぐり」
・・・――その一つは小形の置き時計で、右側の壁にくっつけた戸棚の上にある、もう一つは懐中時計でベットの頭の手すりにつるしてある――この二つの時計の秒を刻む音と、足もとのほうから聞こえて来る付添看護婦の静かな寝息のほかには何もない。ただあまりに静か・・・ 寺田寅彦 「病院の夜明けの物音」
・・・丁度、西南戦争の後程もなく、世の中は、謀反人だの、刺客だの、強盗だのと、殺伐残忍の話ばかり、少しく門構の大きい地位ある人の屋敷や、土蔵の厳めしい商家の縁の下からは、夜陰に主人の寝息を伺って、いつ脅迫暗殺の白刄が畳を貫いて閃き出るか計られぬと・・・ 永井荷風 「狐」
・・・深谷がおれの寝息をうかがうわけがない。万一、深谷がうかがったにしたところで、もしそうなら電燈のついた時彼が寝台の上にいるはずがない。そしてあんなに大っぴらに、スリッパをバタバタさせて出てゆくはずがない。第一、なんのために深谷がおれの寝息なん・・・ 葉山嘉樹 「死屍を食う男」
・・・家には平穏な寝息、戸外には夜露にぬれた耕地、光の霧のような月光、蛙の声がある。――眠りつかないうちに、「かすかに風が出て来たらしいな」私は、雨戸に何か触るカサカサという音を聞いた。「そう風だ、風以外の何であろうはずはないではないか、そして、・・・ 宮本百合子 「田舎風なヒューモレスク」
・・・ 自分は次の間に、お節は父親のそばに分れて部屋を暗くすると二人ともが安心と疲れが一時に出て五分とたたない中に快さそうな寝息をたてて居た。 翌朝いつまでも栄蔵は起きなかった。お節があやしんで体にさわった時には氷より冷たく強ってしまって・・・ 宮本百合子 「栄蔵の死」
・・・ 祖母の寝息さえ私の耳には届かない様になった。こんな事は勿論、私の妄想にすぎないと知りつつも、此上ない恐れに心を奪われて、いきなり枕へ頭を下すやいなや、夜着を深くかぶって、世界中たった一人の身になりでもした様な、たよりない気持になって、・・・ 宮本百合子 「農村」
・・・息を殺して子供の寝息をうかがうみのえの前に、切ない待ち遠しさが光った道になって横わった。 ○ 母親が先に立って行く。一間と離れず油井とみのえがその後に跟いた。それでも人波の間に紛れてしばしばお清の後姿・・・ 宮本百合子 「未開な風景」
出典:青空文庫