・・・私は、私の寝顔をさえスケッチできる。 私が死んでも、私の死顔を、きれいにお化粧してくれる、かなしいひとだって在るのだ。Kが、それをしてくれるであろう。 Kは、私より二つ年上なのだから、ことし三十二歳の女性である。 Kを、語ろうか・・・ 太宰治 「秋風記」
・・・子供の寝顔を、忘れないように、こっそり見つめている夜もある。見納め、まさか、でも、それに似た気持もあるようだ。この子供は、かならず、丈夫に育つ。私は、それを信じている。なぜだか、そんな気がして、私には心残りが無い。外へ出ても、なるべく早く帰・・・ 太宰治 「新郎」
・・・低く小さい、鼻よりも、上唇一、二センチ高く腫れあがり、別段、お岩様を気にかけず、昨夜と同じに熟睡うまそう、寝顔つくづく見れば、まごうかたなき善人、ひるやかましき、これも仏性の愚妻の一人であった。 山上通信太宰治 ・・・ 太宰治 「創生記」
・・・神の昼寝の美事な寝顔までも、これ、この眼で、たしかに覗き見してまいりましたぞ。」などと、旗取り競争第一着、駿足の少年にも似たる有頂天の姿には、いまだ愛くるしさも残りて在り、見物人も微笑、もしくは苦笑もて、ゆるしていたが、一夜、この子は、相手・・・ 太宰治 「二十世紀旗手」
・・・髭がその人の生活に対決を迫っている感じ、とでも言おうか。寝顔が、すごいだろう。僕も、生やして見ようかしら。すると何かまた、わかる事があるかも知れない。マルクスの口髭は、ありゃ何だ。いったいあれは、どういう構造になっているのかな。トウモロコシ・・・ 太宰治 「渡り鳥」
・・・ ベッドの上に掛け回したまっ白な寒冷紗の蚊帳の中にB教授の静かな寝顔が見えた。枕上の小卓の上に大型の扁平なピストルが斜めに横たわり、そのわきの水飲みコップの、底にも器壁にも、白い粉薬らしいものがべとべとに着いているのが目についた。 ・・・ 寺田寅彦 「B教授の死」
・・・そのころのスケッチ帳に亮の妻が亮の寝顔を写生したのがあるが、よく似ていて、そしてやつれはてているのがさびしい。去年の春から悪くなって、五月に某病院に入院するとまもなくなくなった。臨終は平穏であった。みんなに看護の礼を言って暇ごいをして、自分・・・ 寺田寅彦 「亮の追憶」
・・・ 彼は、暑さにジタバタする子供の寝顔を、薄暗い陰気な電燈の光に眺めた。 吉田は大きな溜息をついた。両方の手で拳を固く拵えて、彼の部厚な胸を殴った。「おまい、寝られないのかい? 又早く出かけなけゃならないのにねえ」・・・ 葉山嘉樹 「生爪を剥ぐ」
・・・と、善吉はなお吉里の寝顔を見つめながら言ッた。「どうしようねえ。もう汽車が出るんだよ」と、泣き声は吉里の口から漏れて、つと立ち上ッて窓の障子を開けた。朝風は颯と吹き込んで、びッくりしていた善吉は縮み上ッた。 七 ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・って自分達の方へ寝かしてくれ、一晩でかぶとを脱ぎ、昨晩は、さてこれから一合戦と覚悟をきめていたら、思いもかけず眠り通して六時半の太郎の目覚ましで、私も起きた時には思わず床の上に坐って、しげしげと泰子の寝顔を眺めました。せめて五時間でも続けて・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫