・・・古今の英雄の詩、美人の歌、聖賢の経典、碩儒の大著、人間の貴い脳漿を迸ばらした十万巻の書冊が一片業火に亡びて焦土となったを知らず顔に、渠等はバッカスの祭りの祝酒に酔うが如くに笑い興じていた。 重役の二三人は新聞記者に包囲されていた。自分に・・・ 内田魯庵 「灰燼十万巻」
・・・それゆえにこの学校に三、四十人の教授がいるけれども、その三、四十人の教師は非常に貴い、なぜなればこれらの人は学問を自分で知っているばかりでなく、それを教えることのできる人であります」と。これはわれわれが深く考うべきことで、われわれが学校さえ・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
私は母の愛というものに就いて考える。カーライルの、母の愛ほど尊いものはないと云っているが、私も母の愛ほど尊いものはないと思う。子供の為めには自分の凡てを犠牲にして尽すという愛の一面に、自分の子供を真直に、正直に、善良に育てゝ行くという・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・天国にも、これより貴い唄を聞いたことはない。」と、思いました。そして、少女は、近づくと、赤ん坊を負って、唄をうたっている娘にやさしく問いかけたのであります。「もう日が暮れるじゃありませんか。こんなにおそくなるまで、あなたは外に立って、唄・・・ 小川未明 「海からきた使い」
・・・彼は貪るように、また非常に尊いものかのように、一杯々々味いながら飲んだ。前の大きな鏡に映る蒼黒い、頬のこけた、眼の落凹んだ自分の顔を、他人のものかのように放心した気持で見遣りながら、彼は延びた頭髪を左の手に撫であげ/\、右の手に盃を動かして・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・声で語るカルチュアの人は尊いであろう。しかしそのために雷霆の如く怒号する野の予言者を排斥してはならない。質素な襟飾をつけた謙遜な教授は尊敬すべきであるが、そのために舌端火を吐く街頭の闘士を軽蔑することはできぬ。むしろわれわれが要望するのは最・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
・・・今になって毎日毎日の何でも無かったその一眼が貴いものであったことが悟られた。と、いうように何も明白に順序立てて自然に感じられるわけでは無いが、何かしら物苦しい淋しい不安なものが自分に逼って来るのを妻は感じた。それは、いつもの通りに、古代の人・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・などと、小癪なことを吐す受付の小使までも、心の中では彼の貴い性質を尊敬して、普通の会社員と同じようには見ていない。 日本橋呉服町に在る宏壮な建築物の二階で、堆く積んだ簿書の裡に身を埋めながら、相川は前途のことを案じ煩った。思い疲れている・・・ 島崎藤村 「並木」
・・・嘉七がひとり、頭をたれて宿ちかくの草むらをふらふら歩きまわって、ふと宿の玄関のほうを見たら、うす暗い玄関の階段の下の板の間に、老妻が小さくぺたんと坐ったまま、ぼんやり嘉七の姿を眺めていて、それは嘉七の貴い秘密のひとつになった。老妻といっても・・・ 太宰治 「姥捨」
・・・衣食足った人の道楽に画いたものは下手でも自然の気品があって尊いものだ。とこう云うのである。自分もなるほどと思ってその方はあきらめたが、さらば何をやって身を立てるかと考えても、やっと中学を出ようと云う自分に、どんな事が最も好いか分り兼ねた。工・・・ 寺田寅彦 「枯菊の影」
出典:青空文庫