・・・けれども目の前へ来たのを見ると、小皺のある上に醜い顔をしていた。のみならず妊娠しているらしかった。僕は思わず顔をそむけ、広い横町を曲って行った。が、暫らく歩いているうちに痔の痛みを感じ出した。それは僕には坐浴より外に瘉すことの出来ない痛みだ・・・ 芥川竜之介 「歯車」
・・・窓の障子の上には、夕暮方の光線がぼんやりと染んで、頭には幾分か白髪も交って頬に寄った小皺が目立って見える……室の中には、傷いた道具が僅かばかり並べられてあるばかりで、目を惹くような貴重のものも見当らない。女は、この広い世界にたゞ独り見捨てら・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
・・・羽虫が水を摶つごとに細紋起きてしばらく月の面に小皺がよるばかり。流れは林の間をくねって出てきたり、また林の間に半円を描いて隠れてしまう。林の梢に砕けた月の光が薄暗い水に落ちてきらめいて見える。水蒸気は流れの上、四五尺の処をかすめている。・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・武石は、小皺のよった、人のよさそうな、吉永の顔を思い浮べた。そして、自から、ほほ笑ましくなった。――吉永は、危険なイイシ守備に行ってしまうのだ。 丘の上のそこかしこの灯が、カーテンにさえぎられ、ぼつぼつ消えて行った。「お休み。」・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・ 呉は、左の腕を捩じ曲げるように、顎の下に、も一方の手で抱き上げ、額にいっぱい小皺をよせてはいってきた。「早や行ってきたのかい?」 腰の傷の疼痛で眠れない田川は、水を飲ましてもらいたいと思いながら声をかけた。「火酒は残ってい・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・藁布団の上に畳んだ敷布と病衣は、身体に纒われて出来た小皺と、垢や脂肪で、他人が着よごしたもののようにきたなかった。「あゝ、あゝ、まるで売り切りの牛か馬のようだ。好きなまゝにせられるんだ!」 彼等は、すっかりおさらばを告げて出て行った・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・と云って、小皺の多い口元を震わせ、慌てて涙を押える。「おかあさまの仰云るのをきくと、Aさんは、まるで悪い方のようなんですものね。貴女が、そんな方と一緒に居らっしゃる筈はないと思っても、矢張り、何だか心配で。――其でも斯うやってお目に・・・ 宮本百合子 「二つの家を繋ぐ回想」
出典:青空文庫