・・・ その後自分は小石川へ家を持つ事になって、しばらくの間友の下宿へも疎くなっていたが、悲しい事情のために再び家をたたんで下宿住いをしなければならぬ事になった時、ちょうど友の隣の下宿の二階があいているとの事で計らずこの雪ちゃんの宅に机を据え・・・ 寺田寅彦 「雪ちゃん」
・・・二十余年の昔、小石川の仮り住まいの狭い庭へたらいを二つ出してその間に張り板の橋をかけ、その上に横臥して風の出るのを待った夜もあった。あまり暑いので耳たぶへ水をつけたり、ぬれ手ぬぐいで臑や、ふくらはぎや、足のうらを冷却したりする安直な納涼法の・・・ 寺田寅彦 「涼味数題」
・・・ 四谷新宿辺では○御苑外の上水堀○千駄ヶ谷水車ありし細流。 小石川区内では○植物園門前の小石川○柳町指ヶ谷町辺の溝○竹島町の人参川○音羽久世山崖下の細流○音羽町西側雑司ヶ谷より関口台町下を流れし弦巻川。 芝区内では○愛宕下の桜川・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・よって、或る夏の夕方に、雑草の多い古池のほとりで、蛇と蛙の痛しく噛み合っている有様を見て、善悪の判断さえつかない幼心に、早くも神の慈悲心を疑った……と読んで行く中に、私は何時となく理由なく、私の生れた小石川金富町の父が屋敷の、おそろしい古庭・・・ 永井荷風 「狐」
・・・わたくしが折々小石川の門巷を徘徊する鳥さしの姿を目にした時は、明治の世も既に十四五年を過ぎてはいたが、人は猶既往の風聞を説いて之を恐れ厭っていた。今の世に在っては、鳥さしはおろか、犬殺しや猫の皮剥ぎよりも更に残忍なる徒輩が徘徊するのを見ても・・・ 永井荷風 「巷の声」
・・・私は都会の北方を限る小石川の丘陵をば一年一年に恋いしく思返す。 十二、三の頃まで私は自分の生れ落ちたこの丘陵を去らなかった。その頃の私には知る由もない何かの事情で、父は小石川の邸宅を売払って飯田町に家を借り、それから丁度日清戦争の始まる・・・ 永井荷風 「伝通院」
・・・九段、市ヶ谷、本郷、神田、小石川方面のお方はお乗換え――あなた小石川はお乗換ですよ。お早く願います。」と注意されて女房は真黒な乳房をぶらぶら、片手に赤児片手に提灯と風呂敷包みを抱え込み、周章てふためいて降り掛ける。その入口からは、待っていた・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・ その頃わたくしの家は生れた小石川から飯田町へ越していたので、何かの折、その辺を歩き過る時、ぽつりぽつりと前後なくその頃の事が思い出される。昨夜見た夢を覚めた後に思返すようなものだ。 浅草も今戸橋場あたりの河岸である。河水に浮べた舟・・・ 永井荷風 「向島」
・・・母さんはむかし小石川の雁金屋さんとかいう本屋に奉公していたって云うはなしだワ。」と言った。 雁金屋は江戸時代から明治四十年頃まで小石川安藤坂上に在った名高い書林青山堂のことである。此のはなしは其日僕が恰東仲通の或貸席に開かれた古書売立の・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・「僕も気楽に幽霊でも研究して見たいが、――どうも毎日芝から小石川の奥まで帰るのだから研究は愚か、自分が幽霊になりそうなくらいさ、考えると心細くなってしまう」「そうだったね、つい忘れていた。どうだい新世帯の味は。一戸を構えると自から主・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
出典:青空文庫