・・・まいりますと、奥さまはもう既に、鷲の羽音を聞いて飛び立つ一瞬前の小鳥のような感じの異様に緊張の顔つきをしていらして、おくれ毛を掻き上げ襟もとを直し腰を浮かせて私の話を半分も聞かぬうちに立って廊下に出て小走りに走って、玄関に行き、たちまち、泣・・・ 太宰治 「饗応夫人」
・・・私は、簡単にお礼を言って小走りにその部屋を出て、それから、わざとゆっくり正面の階段を昇り、途中で蝶の形をほどいてしまった。よごれたよれよれの紐で蝶の形は、てれくさく、みじめで閉口であったのである。 会場へ一歩、足を踏み込むときは、私は、・・・ 太宰治 「善蔵を思う」
・・・何か問題を起したのにちがいない、きっとそうだ、ときめてしまって、応接間に行こうとすると、女中は、いいえお勝手のほうでございます、と低い声で言って、いかにも一大事で緊張している者のように、少し腰を落して小走りにすッすッと先に立って急ぎます。ほ・・・ 太宰治 「誰も知らぬ」
・・・る事になりましたが、その時、学校の玄関のほうで物音がしまして、奥さんは聞き耳を立て、ちょっと行って見てまいりますから、坊ちゃんは、そのあいだにいいところへ隠れていてね、とにっと笑って言って玄関のほうへ小走りに走って行きまして、私は、すぐ教室・・・ 太宰治 「男女同権」
・・・さちよは、ひらと樹陰から躍り出て、小走りに走って三木の背後にせまり、傘を投げ捨て、ぴしゃと三木の頬をぶった。 三木は、ふりかえって、「なんだ、君か。」やさしく微笑した。立ちあがって、さっさと着物を着はじめ、「君は、この男を愛している・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・次郎兵衛は大社の大鳥居のまえの居酒屋で酒を呑みながら、外の雨脚と小走りに走って通る様様の女の姿を眺めていた。そのうちにふと腰を浮かしかけたのである。知人を見つけたからであった。彼の家のおむかいに住まっている習字のお師匠の娘であった。赤い花模・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・とやらかした。小走りの下駄の音。がらりと今度こそ格子が明いた。お妾は抜衣紋にした襟頸ばかり驚くほど真白に塗りたて、浅黒い顔をば拭き込んだ煤竹のようにひからせ、銀杏返しの両鬢へ毛筋棒を挿込んだままで、直ぐと長火鉢の向うに据えた朱の溜塗の鏡・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・すると路地のどぶ板を踏む下駄の音が小走りになって、ふって来たよと叫ぶ女の声が聞え、表通を呼びあるく豆腐屋の太い声が気のせいか俄に遠くかすかになる……。 わたくしは雪が降り初めると、今だに明治時代、電車も自動車もなかった頃の東京の町を思起・・・ 永井荷風 「雪の日」
・・・ この時まで枯木のごとく立ッていた吉里は、小万に顔を見合わせて涙をはらはらと零し、小万が呼びかけた声も耳に入らぬのか、小走りの草履の音をばたばたとさせて、裏梯子から二階の自分の室へ駈け込み、まだ温気のある布団の上に泣き倒れた。 ・・・ 広津柳浪 「今戸心中」
・・・Y、小走りで先へゆく荷車に追いついたと思うと両手に下げてた鞄と書類入鞄を後から繩をかけた荷物の間へ順々に放りあげ、ひょいと一本後に出てる太い棒へ横のりになった。尻尾の長い満州馬はいろんな形の荷物と皮外套を着たYとをのっけて、石ころ道を行く。・・・ 宮本百合子 「新しきシベリアを横切る」
出典:青空文庫