・・・ 陳は小銭を探りながら、女の指へ顋を向けた。そこにはすでに二年前から、延べの金の両端を抱かせた、約婚の指環が嵌っている。「じゃ今夜買って頂戴。」 女は咄嗟に指環を抜くと、ビルと一しょに彼の前へ投げた。「これは護身用の指環なの・・・ 芥川竜之介 「影」
・・・ 赤坊の事を思うと、急に小銭がほしくなって、彼れがこういい出すと、帳場は呆れたように彼れの顔を見詰めた、――こいつは馬鹿な面をしているくせに油断のならない横紙破りだと思いながら。そして事務所では金の借貸は一切しないから縁者になる川森から・・・ 有島武郎 「カインの末裔」
・・・彼はラスプーチンのような顔をして、爪の垢を一杯ためながら下宿の主婦である中年女と彼自身の理論から出たらしいある種の情事関係を作ったり、怪しげな喫茶店の女給から小銭をまきあげたり、友達にたかったりするばかりか、授業料値下げすべしというビラをま・・・ 織田作之助 「髪」
・・・心斎橋筋の雑閙のなかでひともあろうに許嫁に小銭を借りるなんて、これが私の夫になる人のすることなのか、と地団駄踏みながら家に帰り、破約するのは今だと家の人にそのことを話したが、父は、へえ? 軽部君がねえ、そんなことをやったかねえ、こいつは愉快・・・ 織田作之助 「天衣無縫」
・・・それで、母親を欺して買食いの金をせしめたり、天婦羅の売上箱から小銭を盗んだりして来たことが、ちょっと後悔された。種吉の天婦羅は味で売ってなかなか評判よかったが、そのため損をしているようだった。蓮根でも蒟蒻でもすこぶる厚身で、お辰の目にも引き・・・ 織田作之助 「夫婦善哉」
・・・けさ、トイレットにて、真剣にしらべてみたら、十円紙幣が二枚に五円紙幣が一枚、それから小銭が二、三円。一夜で六、七十円も使ったことになるが、どこでどう使ったのか、かいもく見当つかず、これだけの命なのだ。まずしい気持ちで死にたくはなかった。二、・・・ 太宰治 「狂言の神」
・・・私の財布には、五円紙幣一枚と、それから小銭が二、三円あるだけだった。「いいのです。かまいません。」幸吉さんは、へんに意気込んでいた。「たかいぞ、きっと、この家は。」私は、どうも気がすすまないのである。大きい朱色の額に、きざみ込まれた・・・ 太宰治 「新樹の言葉」
・・・十円紙幣が三枚。小銭が二三円ある。」「大丈夫だ。女がかえったときには、また、贋の仕事をはじめている。はやかったかしら、と女がつぶやく。多少おどおどしている。」「答えない。仕事をつづけながら、僕にかまわずにおやすみなさい、と言う、すこ・・・ 太宰治 「雌に就いて」
・・・わしはこの子にわしが六十年間かかってためた粒々の小銭、五百文を全部のこらず与えるものである。三郎はその遺書を読んでしまってから顔を蒼くして薄笑いを浮べ、二つに引き裂いた。それをまた四つに引き裂いた。さらに八つに引き裂いた。空腹を防ぐために子・・・ 太宰治 「ロマネスク」
・・・しかし、それでは物足りない連中は、母親をせびった小銭で近所の大工に頼んでいいかげんの棍棒を手にいれた。投網の錘をたたきつぶした鉛球を糸くずでたんねんに巻き固めたものを心とし鞣皮――それがなければネルやモンパ――のひょうたん形の片を二枚縫い合・・・ 寺田寅彦 「野球時代」
出典:青空文庫