・・・と思うとその幕は、余興掛の少尉の手に、するすると一方へ引かれて行った。 舞台は日本の室内だった。それが米屋の店だと云う事は、一隅に積まれた米俵が、わずかに暗示を与えていた。そこへ前垂掛けの米屋の主人が、「お鍋や、お鍋や」と手を打ちながら・・・ 芥川竜之介 「将軍」
・・・いや、名前ばかりではない。少尉級か中尉級かも知らなかった。ただ彼の知っているのは月々の給金を貰う時に、この人の手を経ると云うことだけだった。もう一人は全然知らなかった。二人は麦酒の代りをする度に、「こら」とか「おい」とか云う言葉を使った。女・・・ 芥川竜之介 「保吉の手帳から」
・・・ 軍曹がうしろの方で呶鳴っているのを永井は耳にした。が、彼は、うしろへ振りかえろうともしなかった。 少尉が兵士達の注意を右の方へ向けようとして、何やら真剣に叫んで、抜き身の軍刀を振り上げながら、永井の傍を馳せぬけた。しかし、それが何・・・ 黒島伝治 「パルチザン・ウォルコフ」
・・・昨日まで同じ兵卒だったのが、急に、さながら少尉にでもなったように威張っていた。「誰れも俺等のためなんど思って呉れる者は一人も有りゃしないんだ。」栗本はベッドの上で考えた。「みんな、自分勝手なことばかりしか考えてやしないんだ!」 ――・・・ 黒島伝治 「氷河」
・・・夜中の二時頃、俺が集合場に馳せつけると、志願兵上りの少尉が見つけてガミガミ云う。「みな、一時に集まって、任務についているんですぞ!」「一体、どういう状勢なんですか?」俺は、ワクワクしていた。「そんなこと、訊ねなくッてよろしい! 命令・・・ 黒島伝治 「防備隊」
・・・それで二日の午前に、まず第一に陸軍から、大橋特務曹長操縦、林少尉同乗で、天候の観測をするよゆうもなく、冒険的に日光へ飛行機をかり、御用邸の上をせんかいしながら、「両陛下が御安泰にいらせられるなら旗をふって合図をされたい」としたためたかきつけ・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・この人がなかなか出来た人で、まだ少尉でいる時分に、○○大将のところへ出入していたものと見える。処が大将の孃さまの綾子さんというのが、この秋山少尉に目をつけたものなんだ。これで行く度に阿母さんが出て来て、色々打ち釈けた話をしちゃ、御馳走をして・・・ 徳田秋声 「躯」
・・・お前を少尉にする。よく働いてくれ」 狐が悦んで四遍ばかり廻りました。 「へいへい。ありがとう存じます。どんな事でもいたします。少しとうもろこしを盗んで参りましょうか」 ホモイが申しました。 「いや、それは悪いことだ。そんなこ・・・ 宮沢賢治 「貝の火」
・・・戦争中は少尉や中尉で、はためにいい気持そうに威張って何年も軍隊生活にいた人が、きょうは民主陣営の先頭に立って、同じように何の疑問もなく「おくれた大衆」という。それはどういう日本の特徴なのだろうかと思って。 進歩性の問題は、ツルゲーネフが・・・ 宮本百合子 「新しい抵抗について」
・・・部隊の名と自分の姓の下に名を書かないで少尉としてあった。そういう書式があるということはそのときまで知らなかった。ハガキをうちかえして眺めながらこっちからやるときは名まで書いてやれることを胴忘れして、もし同じ部隊に同じ苗字のひとが二人いたらど・・・ 宮本百合子 「くちなし」
出典:青空文庫